織田信長は当然ながら多くの近習を抱えていたが、近習出身で自身あるいは子孫が大名になった者は数少ない。本能寺の変をくぐり抜け、秀吉、次いで家康と主君を変えていく離れ業をこなさねば生き残れないのだ。近世大名となったとしても、お家断絶の危機を乗り越えねばならない。明治になって華族の一員となるのは並大抵ではない。
福井市西木田二丁目の長慶寺に「堀左衛門督秀政公墓」がある。
堀秀政は少年期から信長に仕え、奉行を務めるなど能吏として頭角を現す。本能寺の変の折には、羽柴秀吉の中国攻めの軍監として派遣されていた。そのまま秀吉の与力となり明智討伐に貢献する。清州会議で信長の孫の三法師が後継に決まると、その守役となる。その後は四国、九州と秀吉の天下統一戦で活躍する。仕事きっちり、任せて安心の文武両道の人物である。
秀政が越前北ノ庄城を拝領したのは天正13年(1585)のこと。天正11年(1583)に北ノ庄城の柴田勝家が秀吉に討たれた後、丹羽長秀が城主となったが間もなく病没し、その後、秀政が入城した。長慶寺は秀政の菩提所である。
秀政は天正18年(1590)、小田原征伐に従軍したものの、病を得て38歳の若さで陣中に没する。墓は小田原市早川の海蔵寺にある。福井市の長慶寺の墓には秀政の髷を埋納したという。後に子の秀治が越後春日山に転封されたことにより、上越市中門前一丁目の林泉寺にも秀政の墓がある。
秀政は若くして世を去ったが、秀吉からの評価は高い。『名将言行録』(岡谷重実著、文成社発行、明治29年)から引用しよう。
秀政は傑出の人なり、秀吉深く之を愛し、小田原の役終らば、関八州を与へんと思はれしが、惜哉(おしいかな)軍に死せり。秀政の死せしや、貴き人も、賤き者も、惜まぬ人ぞなかりける。世に名人左衛門と名づけしは、天下の指南して落度有間敷人なりとのことなり、是れ天下をも知らせ度と言ふ詞なりとぞ。
秀吉は、関八州、つまり北条氏の領分で後に家康に与えられることとなる関東地方を、秀政に与えたいと考えていたという。そうなると後の展開も変わっていたかもしれない。堀秀政が天下を指南したのか。秀政が天下を取らなかったとすれば、首都東京もなかったかもしれない。
想像は楽しいが、現実の堀氏は秀政の死後どうなったのか。子の秀治は慶長3年(1598)に上杉氏移封後の越後春日山に入る。これが高田藩の始まりである。しかし、次代の忠俊が慶長15年(1610)に御家騒動により改易となってしまう。
しかし、秀政の子で秀治の弟である親良(ちかよし)が幕藩体制化で大名となり、その後、堀氏は下野烏山を経て信濃飯田の藩主として代を継ぎ明治を迎える。そして、華族としては子爵に列せられる。関八州を領することはなかったとはいえ、信長の近習から見事に世を渡ってきた名家である。