「ご挨拶代わりに」とちょっとした贈り物をするのは、私たちの美徳だろう。もちろん手ぶらでも何の問題もないが、ちょっとした気遣いはうれしいものだ。これは現代の職場に限った話ではなく、封建領主でも事情は同じらしい。本日は名門越前松平家による領民へのご挨拶の話から始めよう。
真庭市高屋の天津神社に市指定文化財の「石鳥居」がある。
ごく普通の明神鳥居に見えるが、左柱に「松平越後守源宣富寄進之」と刻まれ、別のところに「正徳四年(※1714年)甲午」とある。松平宣富は津山藩松平家初代として元禄十一年(1698)に入封した。領内各地に鳥居などを寄進して、領民の心をつかもうとしたのだろう。
この天津神社の背後に構える巨大な山を「宮山」という。深山の東尾根の先端部に位置し、旭川沿いの国道に登城口がある。かなり急峻な要害だ。
真庭市高屋、開田、上市瀬の境あたりに「宮山城跡」がある。写真は籠城できそうな広い本丸である。
この大型の城には、どのような歴史があるのだろうか。登城口に説明板があるので読んでおくとよい。
宮山城跡について
・宮山城は別名高屋城とも言われ合戦記に記述の通り対岸の篠向城と共に重要な城であった。
・築城年代はわからないが、戦国時代に活躍していた高田(勝山)三浦の家臣、市又次郎によって造られ天正年間の攻防により、在城者によって増改築されたものと思われる。
・東西の峰に添って細長く城跡はあり、北側は急峻な山で南の市瀬側と東西の峰続きの防備に重点がおかれた築城で、戦国時代の遺構を良く残している。
・昔は草刈山で平野に突出た宮山は大変見晴しの良い城であったと思われ、今も三の丸からの展望は抜群 です。
宮山城跡を守る会
ポイントが3点ある。「天正年間の攻防」とは毛利氏と宇喜多氏の決戦のことだ。この話が一番面白いので、後で述べることにしよう。「戦国時代の遺構」で見応えがあるのは、本丸南側の畝状竪堀だろう。ウネウネしている様子がはっきり確認できる。
「三の丸からの展望」はご覧のとおり。出雲街道が通過する久世盆地を一望でき、攻防の舞台となった山城を視認できる。
天正七年(1579)に宇喜多氏が毛利氏から離反し、東の医王山城からこのあたりにかけては両者が激突する舞台となった。戦いが収束するのは天正九年(1581)の宇喜多直家の死、翌年の秀吉の中国攻めである。
少々古いが旧版『落合町史』第二編人文誌第七章古蹟名勝第一節古城跡「宮山城」の項には、写真の三城と宮山城について次のように記されている。
大寺畑城(大庭郡久世町)小寺畑城(同郡三坂村)篠葺城(大庭郡三崎河原村)等天正七年二月吉川元春攻落する所となれり。之等の城主皆宮山城に拠る。即ち江原親次、蘆田太郎、玉串与十郎、市五郎兵衛等なり。宮山城は難攻不落籠城三年又は五年と旧記に見えたり。化生寺旧記には天正十二年五月十日落城とあるも、其他の旧記には落城の年月を記さず。天津神社旧記によれば、天正二十年九月宮山城主市虎熊丸獅子頭一頭寄進の事見えたり。然れ共天正二十年には宮山城の存在せし記録は何処にも見当らず。宮山城主後裔市虎熊丸と云ふが正しからんか。
宮山落城地方の伝説
宮山城は天正某年三月三日節句の酒宴の最中、不意に毛利勢四万余騎攻め来り陥れしといふ。爾来此城跡に三月三日登山せば、白馬が飛び、あるいは赤子の泣き声が聞ゆといふ。宮山城の亡ぼされたる将兵の亡霊のさまよふならんと云ふ。爾来幾百年、今日に至る迄旧暦三月三日には登山すべからずとせり。旧三月四日には里人登山すれど三日に登山せし人はいまだ之を聞かず。
実際には天正八年二月に宇喜多方だった小寺畑城、続いて大寺畑城が相次いで陥落し、将兵は篠向城へ退去した。翌九年六月に岩屋城が攻略されると篠向城も降伏した。孤立無援となった宮山城は直家の命を受けて開城したという。作州攻防戦は毛利優勢のうちに終わることとなる。その後の中国国分によって宇喜多領とされた作州で国衆が抵抗した背景には、そのような事情があった。
宮山城の落城(開城)日は、篠向城が六月二十九日降伏だから七月初めのことだろう。『落合町史』に登場する市五郎兵衛や市虎熊丸はよく分からないが、一次史料では市三郎兵衛という者が宇喜多秀家配下の宮山城主として確認できる。
それにしても旧暦三月三日の禁忌伝説はいったい何なのだろう。赤ん坊の泣き声は怖いが、飛ぶ白馬ならシャガールの幻想絵画のようだ。開城は無血だったかもしれないが、途中では内通した城方の者が放火し、吉川元春の軍勢が攻め込むという危機もあった。この事がモチーフとなった伝説かもしれない。むかしこっぷり、とびのくそ。