素敵なアイデアが突然ひらめくと「降りてきた」と言ったりする。理屈抜きに神様が授けてくださったと感じるからだろう。神は天上界に御座しますから「天下る」とか「天降る」、あるいは「降臨」などと上下の位置関係で表現する。
「天下り」は中央省庁の高級官僚が退職後に関連団体の幹部となることを言うが、本来はそのような下司のすることには使わない。今回は神様が降り立ったという場所があるというので行ってみた。
宍粟市千種町岩野辺に「古代製鉄(たゝら)の神 金屋子神 降臨の地 岩鍋」と刻まれた石碑がある。
この地に神が降臨したというのか。これは新興宗教の宣伝ではないのか。いぶかしげに思いながら、説明板を読んでみた。
たたらの神様 金屋子神(かなやごのかみ)降臨の地
岩野辺の人々はここを「山の神」と呼んで神聖視してきた所です。元来岩野辺の縁故地であり、周囲の山々と同様に一反五畝歩の分割地として個々が管理しています。
谷川に面した所に桂の老木が茂り、根元に小さな祠がお祀りしてある、人々はこれを「金屋子(かなやご)さん」と言って、丁寧に扱いお祭りしている。
特に出雲地方の人々は「我々の元祖だ。」「ルーツはここか。」と言って今でも一年にニ組や三組は見に来たり、お参りしています。
出雲の旧広瀬町「金屋子神社」の祭文(のりと)によると、高天原から最初に地上へ降臨した所は播磨国志相郡岩鍋という所で、「我は民草を救い、天皇を助ける為に天降りをした。今から鍋作りをするので、よく見習うように」と言って、近くの岩を砕いて鉄を採り出して、鍋釜を作っていたが、「ここでいつまでも居る訳にはいかない。西の方の人が私が行くのを待っているから」と言って白鷲に乗って出雲に至り西比田という所の桂の木に止まっているのを村人が見つけ、そこに住居となる大きな社を建て、村人と共に鉄を取り鍋釜を作り豊かにくらしたということが書いてあります。
最初の降臨した所で、岩を砕いて鍋を作ったところから「岩鍋」という地名をつけた。と岩野辺の元の地名が「岩鍋」であったことも書いてあります。
尚、金屋子神の祠はこれより奥2.2kmの地にあります。
(文責者上山明)
平成二十五年設置 岩野辺自治会
たたらの神様として知られる金屋子神社ゆかりの地だという。「岩鍋」と実際の地名「岩野辺」とは読みが似通う。岩を砕いて鉄を採り出し鍋を作ったから岩鍋。鉄山があるのだろう。
それにしても、播磨と出雲はかなりの距離がある。本当にそんなことが記されているのか。祭文の原文を探すと、『日本科学古典全書』第10巻産業技術篇所収の「鉄山必要記事」に掲載されている「金屋子神祭文 雲州非田ノ伝」だと分かった。読んでみよう。
播磨国志相郡今之岩鍋止云所江、従高天原一神天降リ坐(マシマ)ス神有リ。人民(タミクサ)驚キ而如何ナル神ソ止問マツル、于時神詫(ツケテ)シテ曰ク吾者(アレハ)是作金者(カネタクミ)金屋子ノ神ナリ、諸(モロ/\ノ)人為ニ助ケ救カ天皇乞吾ハ故(カレ)来遠(マウデクトキ)雲路(ヲヽヨク)ヨリ。自(ヨリ)今士農工商者不及云有入程(アラユルホトノ)金道具(カネノミチヲ)具(ツフサニ)於令造之、而悪魔(アラフルカミ)降伏(クタリフクシ)、民(ヲホンタカラ)安全(ヤスク)、五穀豊饒ノ教事於止云云(シカ〃〃)。宛(アタカ)モ其儘以磐(イワ)石ヲ造鍋(ナヘヲツクリ)於賜(タマ)フ、依是彼地号岩鍋止(イワナヘトイフ)、故(カレ)ニ鍋(ナヘ)ノ濫觴(ハジメ)者播磨国ナリ。
祭文だけにけっこう難読である。宍粟市千種町西河内の天児屋たたら公園たたらの里学習館に展示してある「金屋子神社祭文」のほうが分かりやすい。
播磨ノ国の志相郡(しそうごうり)、今の岩鍋(いわなべ)と云ふ所に、高天原(たかまがはら)より一はしらの神天降(くだ)り坐(ま)す有り。人民(たみくさ)驚きて如何なる神ぞと問ひまつる。時に、神託(つ)げて曰(のたまわ)く、吾(あ)は是(こ)れ作金者(かねたくみ)金屋子の神なり。諸(もろもろ)の人、天皇(すめらみこと)を助け救はんが為めに吾に乞ふ。故、遠き雲路(くもぢ)より来、今より士農工商は云ふに及ばず、入るが程の金の道具(うつわ)を造ら令(し)むる有らん。而して悪魔(あらぶるかみ)降り伏し、民安く、五穀(くさぐさのためつもの)豊饒(ゆたけ)く、事を教へんと、云々(しかじか)なり。宛(あたか)も其の侭(まゝ)に磐石(いし)を以(も)て鍋を造り賜ふ。是に依って彼の地(ところ)を岩鍋と号(い)ふ。故に鍋の濫觴(はじまり)は播磨ノ国なり。
播磨は鍋発祥の地ということだ。少々言い過ぎの感があるものの、古代から製鉄が盛んだったことを伝えている。石碑には「金屋子神 降臨の地」と示しているが、説明板には「金屋子神の祠はこれより奥2.2kmの地にあります」とある。確かに、神様は車でやってこないから、道端が降臨の地であるわけがない。
石碑近くの三叉路を曲がって荒尾集落に入り、荒尾川に沿ってさらに遡る。防獣フェンスを越えて少し進むと荒尾鉄山跡があるが、そちらには入らず、林道をどんどん進んでいくと、「金屋子神(かなやごのかみ)降臨の地」を示す説明板があり、川の向こう側にカツラの大木と小さな祠が見える。
調べると「斎つ桂(ゆつかつら)」という言葉があり、古事記にも登場するらしい。カツラは古くから神聖な木として大切にされてきた。出雲の西比田で降り立ったのがカツラならば、播磨の岩鍋で降臨したのもカツラだったに違いない。説明板を読んでみよう。
「金屋子神(かなやごのかみ)降臨の地」
所在地 宍粟市千種町岩野辺(ちくさちょういわのべ)字荒尾
【概要】宍粟市内には数多くのたたら製鉄遺跡が残されているが、その製鉄や鍛冶屋など「鉄」に関わる人々に篤く信仰されてきたのが金屋子神である。
島根県安来市広瀬町にある金屋子神社の祭文には、
「村人が雨乞いをしていたところ、播磨国志相郡(しそうこおり)岩鍋(いわなべ)という場所に、高天原より神が天降り、驚いた村人達がどのような神様であるか問うと、『吾は金屋子神である。これからあらゆる金器(きんき)をつくり、悪魔を降伏し、民が安心し、五穀豊穣となることを教えよう』と告げられ、傍らの岩石をもって鍋を作られた。よってこの地を岩鍋という。しかし、『この地には住むべき山もなく、吾は西方を治める神であるので』と述べられ、白鷺に乗って西国へ去られた」
と、金屋子神が彼の地へ遷座した由来を記している。
この祭文にある「播磨国志相郡岩鍋」は、読みが近いことから現在の宍粟市千種町岩野辺にあたると考えられており、ここに金屋子神降臨地の記念碑が建立された。
また、古代より宍粟郡は鉄の産地として知られており、和銅六年(七一三)から編纂のはじまった『播磨国風土記』にも、「柏野里(かしわのさと)敷草(しきぐさ)の村」(現在の宍粟市千種町)や「御方(みかた)の里」(同一宮町)で鉄が産出されていたことが記されている。中世以降になると千種や宍粟で産出された鉄は「干草鉄」として最高品質のブランドとなり、武将や刀匠など多くの人々から珍重された。
参考文献 西播磨県民局『たたらのふるさと西播磨』ほか
本文には記されていないが、写真で「金屋子神降臨のカツラの木」と「金屋子神降臨の小祠」が示されている。鉄の神様として広く信仰されてきた金屋子神が我が国で最初に出現したのが、このカツラだというのだ。
しかし、島根県立古代出雲歴史博物館が令和元年に開催した企画展「たたら 鉄の国出雲の実像」は、少し異なる捉え方だ。「金屋子神信仰のはじまりと広がり」のコーナーに『鉄山秘書』第一「金屋子神祭文雲州非田ノ伝」を展示し、図録で次のように説明している。
金屋子神は、まず播磨国志相郡(しさわのこおり)の岩鍋(兵庫県宍粟市千種)に降臨し、そののち白鷺に乗って「出雲国野義郡之黒田之奥非田」(安来市広瀬町西非田)の山林で桂の木に降りたところ、安部正重に発見された。金屋子神はここでたたらをはじめ、長田兵部朝日長者がその宮社を建て、正重が神主になって祀ったという。この話は、現在、金屋子神の縁起としては最も有名だが、俵国一が『鉄山秘書』を翻刻する以前はほとんど知られていなかった。
『鉄山秘書』は天明四年(1784)に成立した技術書で、伯耆の鉄山師下原重仲が著した。現在はたたら製鉄の基本文献として知られている。冶金研究のパイオニア俵国一(たわらくにいち)博士(俵孝太郎氏の大叔父)が翻刻紹介したものだという。それ以前にほとんど知られていなかったとすれば、この播磨岩鍋の金屋子神降臨地も新しい伝説地ということになるだろう。
金屋子神信仰の発祥について、同図録が『鉄山秘書』に代わって紹介しているのが、天文十年(1541)の「井上家文書 かないこ祭文」である。こちらは「金屋子神信仰の成立や製鉄技術の伝承を考える上で注目される」と高く評価されている。これは安芸国山県郡壬生村(広島県北広島町)で伝わった祭文だ。
では、播磨の岩鍋は出雲の金屋子神社とどのような関係があるのか。神主となった安部正重が播磨と関係があるのか。それとも、播磨出身者が出雲に技術を伝えたことを示しているのか。
初めて鍋をつくってみせたという金屋子神。その鍋でどのような料理を作ったのだろうか。寄せ鍋かすき焼きか、シンプルに水炊きか。鍋奉行はやはり金屋子神自身だったのか。金屋子神の西遷は鍋料理の伝播を示しているのではないか。それならメニューはさしずめ牡丹鍋ということになろうか。