墓の名がバス停になっているのは全国的にも珍しいだろう。「那須与一の墓入口」と「那須一族公慕」である。「那須与一の墓入口」は北振バスの井原~美星支所線にある。平日は1日6本運行している。
「那須一族公墓」は井原あいあいバスのぶどうの里線にあり、火曜日と金曜日のみの1日3本の運転である。墓はバス停の少し西側にある。行ってみよう。
井原市青野町に「伝那須一族の墓」がある。市指定の有形文化財(石造美術)である。
墓は史跡に指定されることが多いが、ここは石造美術としての指定である。どのような価値があるのか、説明板を読んでみよう。
伝那須一族の墓(室町時代)
高さ一メートル、長さ十メートルの須弥壇状の石段の上に、宝篋印塔一基と五輪六基がある。いずれも、備中一円によく見受けられる粒状石灰岩からなり、宝篋印塔には、天文十五年(一五四六)十一月六日の銘がある。
昭和五十六年十月九日指定
井原市教育委員会
戦国時代の宝篋印塔である。北条早雲を描いた漫画『新九郎、奔る!』に登場する那須一族だろう。那須与一との関係については、墓右手にある絵馬掛に次のように記されている。
那須小太郎一族之廟所
約八百年前この地に、与一宗隆公の四代を経て肥前守荏原三郎朝資(那須小太郎宗晴)が此の地に来たり、西江原小菅城主となりこの地を治めた。
それ以来の一族の廟所である。与一公が的を射た武勲にあやかって入試学業成就など、又与一公の旧蹟を訪れる参詣人があとを絶たない。
与一宗隆の後裔、荏原三郎朝資が初めて荏原荘にやって来た。その系譜は、江戸前期にまとめられた『諸家系図纂』巻之十七下藤原第三「那須」によれば、宗隆-資之-頼資-朝資、ということだ。ところが、異説がある。
井原市西江原町に「諏訪神社」が鎮座する。
諏訪という社号から総本社は信州の諏訪大社だと分かる。その信州から遥か遠い備中の地にお諏訪さまを勧請したのが、那須氏なのだという。説明板を読んでみよう。
史跡 諏訪宮由来
源平屋島の合戦に扇的を射落として勇名を馳せた那須宗隆の戦功は、戦後論功賞の時、高く評価されて全国の五庄を拝領した。
備中荏原庄はその一庄である。
然し宗隆は来ず病没した。
弟の那須宗晴が建久三年(一、一九三)に始めて着任した。宗晴下向の途中武事神・農事神として尊崇されている信濃の諏訪大社に参詣し、武運長久を祈願し、更に諏訪大社上社の祭神建御名方命と八坂刀売命の二神を分霊勧請して荏原庄に着し、現在地に神殿を建立して二神を祭った。
爾来那須氏の守護神と崇拝してきた。関ヶ原戦後那須氏の根拠地十蔵城開城され、何時の頃からか農事神として庶民の信仰する所となる。遂に明治三七年から戸倉地区の鎮守神となり、今も地区民から尊崇されている。
西江原史跡顕彰会
平成七年九月建之
先の「伝那須一族の墓」では、那須与一の後裔である荏原三郎朝資と宗晴は同一人物と考えられていた。しかしここでは、宗晴は与一の弟である。
社前の道をどんどん北に進むと、さらに与一ゆかりの地がある。
井原市西江原町に「禅洞山永祥寺」があり、石柱には「那須与一公菩提寺」と刻まれている。寺の左手に「袖神稲荷大明神」が鎮座している。さらにその左手に「那須一族之墓」という古い石塔群がある。
袖神稲荷にある顔ハメは、与一にも馬にも扇にもなることができ、「一発必中那須与一」と書かれている。平家物語に描かれた「扇の的」の故事から、与一が受験の神様になっている。受験は運もあるし実力も必要だ。道真公の天神様にも両詣りしておけば完璧だろう。
袖神稲荷の袖には、どのような由来があるのだろうか。
袖神稲荷緣起
屋島の源平合戦の際、その名をはせた那須与一宗隆は稲荷を守護神として戦場にて肌身より離さざる。平家の船が扇を竿の先につけ舳に立たせて源氏の兵に射せしむ。射損じなば生還せずと、右袖を波打ち際に投げ捨てる。この袖を拾った同族の主、おし戴いて稲荷大明神に大願の成就を祈念す。与一その扇の要を一矢にて射抜き、戦功に依り荏原庄を賜り、その子孫荏原に小菅城を築き城内に稲荷を祀り、御神体と共にその片袖を安置す。最初は片袖稲荷と申し上げていたが、いつの頃からか袖神稲荷大明神と唱え、小菅城より永祥寺境内に遷し祀る。
扇の要を射抜いた、その時の片袖だけに、霊験あらたかなこと間違いない。稲荷を祀ったのは、与一の「子孫」ということだが、名前は記されていない。
最後に、バス停名にも登場した那須与一の墓にお参りすることとしよう。
井原市西江原町と野上町の境あたりに「那須与一公墳」がある。
那須与一はこの地に来ていないから、これは供養塔だろう。どのような由来があるのか、説明板を読んでみよう。
那須与一公墳の由来
元暦二年(一一八五年)二月十九日、四国屋島の合戦で若冠十七歳の那須与一は、扇の的を見事一矢で射落した軍功により備中荏原荘など五ヵ荘を賜りました。
ここ井原市野上町余次にある「那須公墳」は、荏原那須氏がその祖与一公をしのんで建てた墓です。この墓は古くから扇の的一射必中の故事にあやかって願い事がかなうと伝えられてきました。
近頃、特に高校、大学の受験合格を祈願すれば、直ちに叶えられると言われ、受験生や親達のお参りが絶 えません。
与一公を「公(きみ)に一(ひとつ、志望校)を与える」と名の示す通りに読めば大願成就いたします。
一人でも多く与一公の余徳にあやかり、喜びを共にいたしたいと願うものであります。
昭和五十九年(一九八四年)二月吉日
那須与一公顕彰会
那須与一の墓は全国にいくつもある。米沢市中央五丁目、厚木市旭町の智音神社、大田原市の玄性寺、京都市東山区の即成院、田辺市長野の不動寺、豊中市の超光寺、神戸市須磨区妙法寺地区、徳島県名西郡石井町の那須与一神社、広島県山県郡安芸太田町寺領地区、島根県飯石郡飯南町八神地区などである。ここ井原市にある墓もその一つだ。那須一族の末裔など、ゆかりの人々によって祀られている場合が多い。
那須与一公墳は荏原那須氏によって建てられた。下野国那須郡を本貫とする那須氏が備中にやって来たのはなぜか。先に少し触れた『諸家系図纂』巻之十七下藤原第三「那須」の「宗隆」には、次のように伝記が記されている。
那須与一資隆改名、無双之弓馬之達者也、属源義経於四国矢島射扇于時十七歳、鎌倉帰参、蒙勧賞所謂丹波五ヶ庄、信州角豆荘、若州東宮川原、武州太田庄、備中絵原庄
丹波、信濃、若狭、武蔵、備中で五つの所領を賜ったという。このうち備中荏原荘にやって来たのは、与一の曾孫朝資か、弟の宗晴か。ちなみに、宮崎県椎葉村の平家伝説に登場する那須大八郎宗久も、那須与一の弟だという。
『諸家系図纂』巻之十七下藤原第三「那須」に戻ろう。与一の兄弟を数えると十一人いて、与一はその十一番目。与一という名もそのことを示している。つまり、与一の弟は伝説上の存在に思える。とすれば、やはり荏原三郎朝資と考えるのが妥当か。
有名な那須与一だが、『平家物語』『源平盛衰記』などに登場するが、一次史料どころか『吾妻鏡』にも現れないそうだ。備中以外の所領も那須氏との関係が今一つ不明とのこと。生死を懸けた戦いに「扇の的」のように風雅なエピソードが起こりうるのか。そんな見方もある。
何が史実かよく分からないが、備中那須氏がご先祖さまを誇りにしたことはよく伝わるし、志望校を射止めたい受験生が与一にあやかる気持ちも痛いほど分かる。与一が実在しなかったとしても、一射必中の神様として受験生の胸の内に存在していることは確かだ。