「呰部」は岡山県の難読地名として知られる。呰部郷として平安期の「和名抄」に登場し、中世は山科家領であった。古くから交通の要衝であり、上呰部、下呰部となった現在も、中国自動車道が通過している。この地に巨大な山城があるというので訪ねることにした。行ってみよう。
岡山県真庭市下呰部(しもあざえ)に「丸山城跡」がある。浅い堀切を越えてどんどん奥へ進むと土塁がある。
土塁の向こうは…。
深い堀切がある。ここまで大規模なものは、なかなかお目にかかることができない。壁のような斜面を越えて進むと、いくつかの曲輪が段を成し、その先にたいへん広く細長い曲輪がある。
先端からは呰部郷が一望でき、国道313号から県道58号へと続く南北交通を掌握している。城主は誰だったのか。江戸後期の地誌『備中誌』英賀郡下呰部「丸山城」には、次のように記されている。
丸山城
集成志に当城は庄氏の一族福井孫六左衛門尉居住す永禄十一年佐井田城合戦の時三村政親と戦ひ元亀年中には尼子の勢と接戦し武功有と云
又府志には庄太郎家永より十五代庄兵部太輔勝資が子宮若丸を城主とすれど集成志に拠に宮若丸は上呰部高鈞部の城主とす猶可考
集成志こと『備中集成志』によれば、庄氏の一族福井孫六左衛門尉が城主だったという。永禄十一年の佐井田城合戦は、庄氏一族で三村方の植木秀長を宇喜多氏が攻め降伏させた戦いである。元亀年中に活動した尼子勢とは尼子再興軍だが、このあたりの情報は以前の記事「方谷先生ゆかりの城は備中三名城」でまとめている。
庄氏は天文年間に備中に覇を唱えていたが、三村氏の台頭により衰退する。基本姿勢は反三村氏であり、三村氏と敵対した毛利氏や宇喜多氏と組んだようだ。府志こと『古戦場備中府志』に登場する庄勝資については、出典で確かめてみよう。
吉備群書集成第五輯『古戦場備中府志』巻之二英賀郡六郷(中井、水田、呰部、刑部、丹部、林)の「丸山城」の項には、次のように記されている。
丸山城 上呰部村
城主庄ノ太郎家長十五代庄兵部大夫勝資。天正三年備前児島麦飯山城主明石源三郎を討取。嫡男宮若丸と夏の戦死を感じ、毛利家より知行被宛行鳬。(源三郎嫡男は明石掃部とて、後年大阪籠城也。)
(大崎麦飯山軍功の感書に、天正四年二月二十三日とあるは、翌年被書たる感書故に、四年と有之もの歟。)
天正三年の麦飯山城合戦については以前の記事「謎の前哨戦、麦飯山の戦い(八浜合戦・上)」に詳しい。おそらくは天正十年二月の八浜合戦を反映した虚説だろう。この戦いで庄勝資は敵の主将を討取ったものの、直後に自身が討たれる。
『古戦場備中府志』の記述で意味が取りにくいのは「嫡男宮若丸と夏の戦死を感じ」の箇所である。父の庄勝資が殊勲を立てながらも討死したのだから、毛利家が嫡男宮若丸の御家存続に便宜を図るのは当然だろう。
麦飯山の戦いは史実では天正十年二月、『中国太平記』では天正三年九月だから、季節は春または秋であり、夏ではない。「夏の戦死」がよく分からないので、活字本の吉備群書集成ではなく、「デジタル岡山大百科」や「国書データベース」で公開されている肉筆本を解読アプリ「古文書カメラ」で読み取ると、「度の戦死」という結果を得た。その時の勝資の戦死ということだろう。
その後の庄氏はどうなったのか。宮若丸は長じて信資と名乗り、高釣部城に移ったという。信資は朝鮮出兵で戦死し、跡継ぎの直清は関ヶ原で西軍につき、敗戦後に帰農したらしい。
敵の侵入を防ぐ大堀切と眺望の利く広い曲輪を備えた丸山城を舞台に、戦いはあったのだろうか。戦わずして廃城となったのではないか。では、なぜ捨てられたのか。美しくて大きな山城をめぐる謎はつきない。