吉本の舞台では定番のギャグが登場すると全員がこける。ギャグそのものは意味不明でも、みんながこけると面白く感じてしまう。何度も見ているうちにクセになり、来るぞ来るぞと心待ちするようになる。
本日は、こけたお地蔵様のお話である。こけるといっても、ずっこけているわけではないようだ。さっそくお参りしよう。
お地蔵さまはどこに? 不思議に思ってのぞき込むと、こけていらっしゃった。
津山市小原(おばら)に「こけ地蔵」がある。
薄いレリーフでお地蔵様のシルエットが浮かんでいる。いったいどうして横たわっていらっしゃるのだろうか。説明板を読んでみよう。
この地蔵の由来
この石仏は昔から小原、一宮街道に常に転んでいるので「こけ地蔵」と呼ばれて悪病除のご利益もあって小原の名物となって居る。
且っては若者達の力試しの為に利用されて遠く八子、総社迄転んだと云われて居る。その為、石仏体はかなり摩滅している。
石仏の由来についてはさだかでない。
平成十四年十月吉日
小原町内会 小原東老人クラブすみれ会
どうやら病魔退散のご利益があるようだ。コロナ禍では妖獣アマビエが大人気で、昨秋、三次もののけミュージアムで開かれた企画展「予言獣のチカラ アマビエとアマビコたち」で詳しく紹介されていた。こけ地蔵も負けず劣らずご利益があるはずだが、ヴィジュアルが物言う昨今、あのキラキラ目でうろこ衣装、ロングヘアのアマビエには勝てないだろう。
地方の神社を訪ねると、若者が力比べをしたという力石が保存されていることがある。お地蔵様を力石にするとは不届きな感じがするが、それだけ小原の若者は血気盛んだったのだろう。八子や総社は少し高台にあり、運んだはいいが帰りは転がしたなんてことはないか心配だ。
美作の伝説を集めた島田秀三郎『心のふるさと 美作伝説考』にも、このお地蔵さまが紹介されている。読んでみよう。
こけ地蔵
津山市一の宮の中山神社から小原に出る一宮街道にこけ地蔵があった。旧藩の頃、このあたりに疫病が流行した時、里人が病除けに建てたものであるが、咽喉元過ぎれば熱さを忘れるで、ある時里人の一人が田圃の邪魔になると他の場所へ移すと、その年再び村に疫病が流行った。愕いた村人は、また元の場所へ移したが、以来、この地蔵は何度立て直しても御きげんが悪く溝に倒れ込んでしまった。時が移って、溝に倒れている時は不景気で、立っている時は景気がいいと変わったが、相変わらず溝に倒れている事が多かった。この地蔵は今は姿が無くなった。心ない都会の金持ちの庭にでも移転したのであろう。
どうやら行方不明になっていた時期があったようだ。都会の金持ちとやらは、動かすと罰が当たることを知らなかったのだろうか。力試しにするのも手荒だが、盗むのはもっとよくない。人々の願いをないがしろにするのは、人の道に反している。
さて、「旧藩の頃、このあたりに疫病が流行した」というが、いったいいつのことだろうか。江戸時代の流行病といえば天然痘や麻疹だが、インフルエンザもあったらしい。記録によれば、津山藩は享和二年(1802)に天然痘の流行で厳戒態勢をとった。家族が罹患した者つまり濃厚接触者は、登城を自粛するようお触れがあったというから、現代の職場と同じだ。
もしかするとこけ地蔵も、この頃に建てられたのかもしれない。困った時にはたいそう大切にするが、収まると邪魔物扱いする。お祈りすんのかいせんのかい。せんのかい思うたらすんのかい。私たちはお地蔵さまにツッコまれている。