ハンニバルによる象のアルプス越えは、ローマを大混乱に陥れた。第二次ポエニ戦争、紀元前218年のことである。それから1400年を経て、馬が海を渡って敵を急襲した。このことは次のように語られた。『平家物語』巻第十「藤戸」より
昔より今にいたるまで馬にて河を渡す兵はありといへども、馬にて海を渡す事、天竺震旦は知らず我朝には稀代のためし也
馬が川を渡るのは聞いたことがあるが、海を渡るとは…。インドや中国は知らないが、我が国では前代未聞だ。『平家物語』の作者も驚く奇策である。いよいよ備前児島で戦闘が始まる。
倉敷市粒江の西明院に「先陣庵」がある。
ここは佐々木盛綱が先陣の馬を乗り上げた場所だと伝えられている。盛綱の渡海ルートは、前回紹介の「乗り出し岩」「鞭木跡」とここ「先陣庵」を結ぶと分かる。距離にして2キロと少しである。
ハンニバルのアルプス越えのルートは長らく謎であった。有名な絵画『ベルナール峠からアルプスを越えるボナパルト』では、岩に「HANNIBAL」と刻まれているので、私はハンニバルもナポレオンもグラン・サン・ベルナール峠を通過したものと思っていた。
ところが昨年、トラベルセッテ峠で軍馬の糞と思われる堆積物が大量に見つかり、炭素同位体分析を行った結果、堆積物の年代は紀元前200年頃だと判明した。これによって長年の論争に終止符が打たれるのではと期待が高まっているそうだ。
その昔、ローマが慌てたのは、象に驚いたというよりも、南に位置するカルタゴがまさかのアルプス越えで北から攻撃してきたからである。では、平家方はどこに陣取っていたのか。
倉敷市広江6丁目にある「篝(かがり)地蔵」に「平家本陣跡」という石碑がある。
本陣では、いつもかがり火をたいて敵襲に備えていたという。そこへ、盛綱に続けと源氏方が次々と渡海していった。「先陣庵」と「平家本陣跡」の間一帯で激闘が行われた。
倉敷市粒江に「源平藤戸合戦沖ヶ市激戦地跡」の石碑がある。
このあたりでは人骨や武器が出土したこともあるという。近くには死骸にちなむ地名さえ伝わる。
倉敷市粒江に「源平藤戸合戦腸川(わたがわ)史跡碑」という石碑がある。
「腸(わた)」という字に何かありそうだ。『藤戸町誌』は次のように解説している。
口碑によると、この川の附近に浦の男の死骸が流れついて、はらわたが出て流れたので、このような名前が起ったという。或はまた源平合戦のとき、この辺で討死した武士の血やはらわたが流れたのだともいう。
浦の男の話は次回にすることとし、ここでは平家方が大敗したことだけ確認しておこう。敗走する者は今の高速道路に沿って山を抜け、水島方面に出てから船に乗り、屋島を目指して逃げ去ったという。
平家方の大将は平行盛、清盛の次男基盛の子である。父を早くに亡くしたが、血筋の良さで出世し、歌の才能もあった。藤戸での敗戦後は他の公達と運命を共にし、壇ノ浦で最期を迎えた。
藤戸の戦いは、膠着状態にあった源平合戦を大きく動かし、このあと屋島、壇ノ浦と短いスパンで決戦が行われていく。その勝因が日本史上初の馬の渡海作戦だったことは、ハンニバルの象に匹敵するとは言わないが、もっと記憶されてしかるべきではないだろうか。次回は合戦の後日談を語ることとしよう。
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