岡山県の倉敷市というと、美観地区、瀬戸大橋、ジーンズなどで全国的に知られる都市である。市制を施行する前、すなわち明治半ばから昭和初めまでは「倉敷町」であった。ところが県北にも「倉敷町」があり、どっちがどっちやねんと混乱が生じたらしい。そのため、県北の倉敷町は林野町と名称を改めたそうだ。大正七年のことである。
美作市林野・栄町・朽木の境にある城山に「林野城跡」がある。市指定史跡である。
写真は本丸で、住宅街にある長閑な公園にように見える。ところがここは山上、登るのにかなりの労力を必要とする。城山の標高は249mもあって、しかも急勾配だ。ここを巡ってどんな攻防があったのか。登城口にある説明板を読んでみよう。
林野城
群雄割拠の鎌倉時代林野城と呼ばれ又、以後倉敷城とも呼ばれていた。向かい合う三星城の後藤一族が在城し、後に尼子勢・江見一族・宇喜多・小早川の勢力下にあったといわれている。
しかし、康安元年(正平一六年・一三六一年)山名伊豆守時氏が足利氏に背き、美作に侵攻の際に三星城とともにこの城も落ちたと伝えられている。
この城山は三方を川によって庶(※遮の誤り)られた馬の背状の地形をうまく利用して築かれた天然の要塞であり、城郭も立派で本丸・二の丸・三の丸と三段に活用した連郭式の豪壮な山城で標高二五〇米山容の雄大なることは作東随一のものといわれている
一次史料には「林野」も「倉敷」も登場するから、倉敷町が林野町に改称されても一向に構わない。その後、美作町、美作市と美作一国を代表するかのような名称にしたことが問題だろう。こういうのを僭称という。
写真の奥に「美作市重要文化財 林野城址」「鎌倉期から約二五〇年間にわたる連郭式の山城・倉敷城ともよばれる」と判読できる朽ちかけた標柱がある。『英田郡誌』によれば、鎌倉期にこの城にいたのは後藤良兼という武将だが、詳細は分からない。
しかし『太平記』にも登場するから、古くからの山城であることに間違いない。ここは街道と河川で東西南北に通じ、美作東部における交通の要衝である。山名時氏は室町幕府の大物武将だが、この頃は異端児足利直冬を担いで中国地方を席巻していた。『太平記』巻第三十六「山名伊豆守落美作城事付菊池軍事」には、次のように記述されている。
七月十二日山名伊豆守時氏・嫡子右衛門佐師義・次男中務大輔、出雲・伯耆・因播、三箇国ノ勢三千余騎ヲ率シテ美作ヘ発向ス。当国ノ守護赤松筑前入道世貞、播州ニ在テ未戦前ニ、広戸掃部助ガ名木杣二箇所ノ城、飯田ノ一族ガ籠タル篠向ノ城、菅家ノ一族ノ大見丈ノ城、有元民部大夫入道ガ菩提寺ノ城、小原孫次郞入道ガ小原ノ城、大野ノ一族ガ籠リタル大野城、六箇所ノ城ハ、一矢ヲモ不射降參ス。林野・妙見二ノ城ハ、廿日余リ怺(こらへ)タリケルガ、山名ニ兎角スカサレテ、遂ニハ是モ敵ニナル。
康安元年(正平一六年、1361)七月十二日、山名時氏父子が出雲伯耆因幡三か国の軍勢三千余を率いて美作に攻め込んだ。美作守護の赤松貞範が播磨にいて戦いを挑む前に、美作では一戦も交えずに山名軍に降参する城が続出した。林野城と三星城だけは二十日余り持ち堪えたが、山名方に説得されて直冬方となった。
相向かいに位置する林野城と三星城を巡る勢力図はほぼ同様の変遷をたどるのだが、戦国大名の草刈場となる中で独自の動きもあったらしい。永禄三年(1560)に三星城の後藤勝基が尼子氏から離反し浦上氏についたが、林野城の江見久盛は変心しなかった。しかしながら、同八年(1565)に毛利方の斎藤親実に攻略され、同十一年(1568)に久盛の後継者久資も城を捨てることとなった。説明板にある「江見一族」とは、林野城が存在感を示していた時代であった。
尼子氏、毛利氏、宇喜多氏が次々と手を伸ばし、その昔には山名氏が落としたという名城、林野城。県北の倉敷は観光客ではなく、戦国武将に人気の要衝であった。