時は文久3年。孝明天皇が将軍家茂を従えて下賀茂神社に行幸し攘夷を祈願した。長州藩はアメリカ,フランスの商戦を砲撃し,しばらく後に軍艦からの逆襲を受けた。薩摩藩にはイギリス艦隊が来襲し城下に火の手が上がった。攘夷と報復の嵐が吹き荒れ,対外的な危機は頂点に達していた。
大阪市此花区伝法五丁目の古刹・西念寺の門前に「傳法山門前 備前橋跡」の碑がある。
写真の大坂道とは尼崎街道のことで,門前を流れる伝法川には「備前橋」という大きな橋が架かっていた。正蓮寺川の森巣橋を渡って鴉宮,南伝法村を通って伝法川を備前橋で渡る。西念寺から申村に入り尼崎へ向かう。伝法に森巣橋と備前橋しかなかった時代だ。新淀川の新伝法大橋には比ぶべくもないが,イメージとしてはそんな長大橋である。
備前橋は,その名のとおり備前の岡山藩によって文久3年に架けられた。同じ街道筋の森巣橋も同年同藩による普請である。なぜ大坂に岡山藩なのか。
当時の岡山藩主は池田茂政(いけだ もちまさ),水戸斉昭の第9子で尊王攘夷への意気込みは強い。文久3年2月に藩主になったばかりだが,下賀茂神社行幸では前駆を務めるなど,中央政界でも活躍する新進気鋭の若殿である。
岡山県立記録資料館のHP岡山県の年表で,文久3年7月に「岡山藩,大坂表警備を命じられる」とある。冒頭で述べた状況と岡山藩の警備とは無関係ではあるまい。武士の速やかな移動のために交通インフラを整備したのだろう。幕末の岡山藩の活躍を形に残す貴重な史跡である。
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