説明がなかったら気に留めないだろう。愛でるような石とはとてもいえない。しかし、その石は永年にわたって荘園の境界を示すものとして人々に意識されてきた。そのことが石に歴史的な生命を吹き込んだのだ。今日は法隆寺領播磨国鵤荘(いかるがのしょう)の牓示石(ぼうじいし)のうち、東部に位置する2つを紹介しよう。
兵庫県揖保郡太子町松ヶ下に「松ヶ下投げ石」がある。
投げ石とは、聖徳太子が檀特山の上から投げたことに由来するという。太子信仰の遺跡でもあるのだ。
太子町東出字旗ノ前に県指定文化財「鵤荘牓示石」のうち「太田牓示石」がある。
旧山陽道から少し北に入ったところにある。小学校から東へ山裾を通り抜けると、そこは大田荘の領域となる。鵤荘の歴史は古く『日本霊異記』第五に次の記述がある。
十七年己巳の春の二月に、皇太子、連の公に詔して幡磨国揖保郡の内二百七十三町五段余の水田の司に遣はす。
610年2月に聖徳太子が大部屋栖野古(おおとものやすのこ)に命じて播磨国揖保郡にある273町5段余りの水田の管理者とされた。このような意味である。早くから農地が開けていたようだ。現在この地は、山陽新幹線、国道2号が通過し、東芝の大きな工場がある交通や産業の要衝である。古代人も現代人も見る目は同じなのだ。
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