広隆寺の半跏思惟像のアルカイックスマイルは小学生の私の心をも捉えた。図工の時間に模写して塩ビ板にニードルで刻んだ。スマイルは再現できなかったが、好きな仏像第1号となった。広隆寺は京都の太秦(うずまさ)にある。私は行ったことがない。今の小学生は修学旅行で映画村に行くので、太秦を知っているようだ。
寝屋川市川勝町に「伝・秦河勝の墓」があり市指定史跡となっている。
河勝の墓は「川勝町」にあり、南には「秦(はだ)」「太秦(うずまさ)」という地名がある。この地が渡来系氏族の秦氏によって開発されたことを物語るのだろう。中でも秦河勝は聖徳太子の側近として活躍した。前述の広隆寺は、推古天皇11年に河勝が太子から仏像を賜ったことに始まるということだ。
河勝の墓とされる五輪塔には、地輪の4面に文字がびっしりと刻まれている。寝屋川市教育委員会『ねやがわ歴史探訪』に碑文が翻刻されている。それによると、この碑の名称は「河内國茨田之河東太秦之北峯廣隆卿御廟之碑」とのことだ。廣隆卿が秦河勝のことである。下の引用は、この五輪塔が建立された経過についてである。
初昔有於此所五輪石塔高一
丈餘下疊方石四方石階塔銘
叮嚀也而豊臣公文禄年中近
里諸石取之淀川入波堤底肯
散亡支堤既絶傳聞將断遺名
粤秦姓河勝氏宗勝長明愍失先祖
廟跡兼承武國遺志略舊記書
且補後廢乃銘曰
霊徳無邊 仁海莫濳 顯天浮水 分影刹塵
獨有化生 名河勝臣 持國變人 秦王後身
五朝輔柄 治國安民 奉聖誅屋 紹隆佛神
彼爲始皇 此爲大臣 應用難測 亦化何臻
慶安二年歳次己丑仲夏上旬 謹誌
以前ここには別の五輪塔があったが、豊臣秀吉が文禄年中に淀川の堤を築くのに石として使ってしまったので、秦河勝の子孫が慶安2年に再建したということらしい。
また、同じ敷地内に「正六位上兼右近衛府生秦武文」と刻まれた石碑がある。秦武文は『太平記』に登場する南朝の忠臣である。同じ秦一族なので併せて顕彰しているということか。由緒ある石塔に伝統の地名、ここは秦氏の聖地である。
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