現在、国宝や重文に指定されている刀剣に備前刀が占める割合は大きく、特に鎌倉時代の秀作が目立つ。武事に積極的だった後鳥羽上皇は、全国から刀鍛冶の名工を召し出し月交替で作刀させた。「御番鍛冶」の制度である。まずは吉川弘文館『国史大辞典』に説明してもらおう。
この企画は討幕の準備の一環と考えられ、そのことは『承久記』にもみえているが、それを具体的に詳細に記述した最初の刀剣書は『観智院本銘尽』で、鍛冶には一月則宗、二月貞次、三月延房、四月国安、五月恒次、六月国友、七月宗吉、八月次家、九月助宗、十月行国、十一月助成、十二月助近(延か)をあげている。国安と国友は山城の粟田口派、貞次・恒次・次家の三人は備中の青江派であるが、残りの七人は備前の福岡一文字派であって三ヵ国の刀工で占められている。
番鍛冶の刀は行国と助延を除くとほかのは幾口ずつかは現存しているがいずれも優品揃い。
確かに討幕の準備だったかもしれないが、刀のブランド力を高める産業振興の役割があったともいえる。
寝屋川市秦町に「秦の刀鍛冶屋敷跡伝承地と井戸」がある。説明板を持つのは鉢かづき姫だが、このおとぎ話は別の機会にお話しよう。
ここでまず注目すべきは「秦(はだ)」という地名である。この地名は全国に散見され、渡来人との関係が指摘されている。おそらくこの丘も技術の先進地だったのだろう。
かつてこのあたりに刀鍛冶の屋敷や井戸があったようだ。今はすっかり穏やかな住宅地となって、標柱が由緒を伝えるのみである。ただ小字名に「鍛冶屋垣内(かじやかいとう)」「献刀谷(けとだに)」という、それらしい地名が今も残るのだという。
ここ秦の刀鍛冶について、江戸期後半(享和元年・1801)の地誌『河内名所図会』が次のように案内している。
鍛冶秦行綱宅址 秦村にあり。相傳フ、後鳥羽上皇、諸州の名匠を徴して刀釼を造らしむ。行綱、其第一に撰ばる。
ところが、「行綱」は前述の御番鍛冶リストに登場しない。「第一」はどういうことか。これに対して、江戸期前半(延宝7年・1679)の地誌『河内鑑名所記』では次のように案内されていた。
此秦村ニ昔名鍛冶有。後鳥羽院御宇、十月の詰番の鍛冶、行国、勅釼を打上奉る。此所より出る人也。
名鍛冶の「行国」はこの地の出身だという。十月の御番鍛冶は、確かに行国(備前福岡一文字派)である。備前の刀工が備前出身とは限らない。全国の名匠は後鳥羽院が召し出す前に、備前に集まっていたのだ。