各地を転戦して最後には天下をとった徳川家康は亡くなってからも旅をした。一旦は久能山に葬られたが日光に改葬されたのである。それは家康の意思、いや遺志であった。それは遺骸の移動ではない。神、東照大権現の遷座であったのだ。
川越市小仙波町一丁目に日本三大東照宮の一つ「仙波東照宮」が鎮座する。訪れたのは新緑鮮やかな季節で、影まで緑色に見えるくらいだった。風も時間もゆったりと流れていた。
久能山から日光への改葬は、死の翌年、元和三年(1617)に行われた。3月15日から4月4日にかけての長旅であった。川越との関わりについて、川越地方史研究会発行『国宝川越大師喜多院』の仙波東照宮の項を読んでみよう。
元和2年(1616)家康が歿くなって一旦久能山に葬ったが、翌3年日光山に改葬の途中、3月23日から26日までの4日間遺骸を喜多院に留めて、天海が導師となって大法要を営んだ。そんな因縁で境内に東照宮が祀られ、寛永10年(1633)には立派な社殿も造営された。ところが同15年の川越大火で類焼したため、川越藩主堀田正盛が奉行となって直ちに再建に着手、17年(1640)に完成したものが現在の社殿である。
徳川家康、その菩提を弔った天海僧正、徳川家光誕生の間がある喜多院、そして堀田正盛…、堀田正盛? 彼こそは将軍家光に殉死したほどの徳川の忠臣である。写真上の鳥居に名前が刻まれている。
東照大権現が4日滞在した川越。小江戸という冠称は雰囲気のみにあらず、実のところ徳川の聖地であった。
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