日本史を語る上で天皇の存在は誠に大きいが、125代のほとんどは御簾の内に隠れて、どのようなお方かよく存じ上げない。しかし後醍醐天皇は違う。個性が際立っておりその個性が歴史を動かしているように思える。
新見市千屋に「後醍醐天皇の休石」がある。国道180号線沿いに大きな看板があるので目に付きやすい。
岡山県内でも千屋は寒冷地として知られ、天気予報のアメダスがあることから千屋アメダス村として地域の活性化に努めている。いや県内最高級ブランド牛の千屋牛のふるさとの方が通りがよいだろう。
国道180号線は陰陽を結ぶ重要な道で、分水嶺の明地峠に向かってどんどん標高が上がっていき、積雪量も増えていく。この険しい道に「休石」とはありがたい。私も車を停めて小休止である。いったいどのような由来があるのだろう。昭和13年の合同年鑑別冊附録『郷土名物と伝説』(合同新聞社発行)を読んでみよう。新字体に直している。
後醍醐神社(阿哲〉
此れは其の証左詳なれば一の史跡又は旧跡として取扱ふ可きも惜しい哉其れに欠けたれば一の伝説に属すべきものか、即ち青史を遡りて六百有余年、古今奸雄朝敵尊氏、畏くも後醍醐天皇を隠岐に遷幸為し奉りし元弘の昔、一天万乗の大君の御輿は憂を籠めて長途遥かに美作に入り給ひ長恨尽きぬ旅愁を暫し院の庄に憩ひ給ひ忠臣高徳の赤心青墨の桜の詩に天意纔に愁情を慰し給ひて鸞輿は又一路西へ。即ちここに伝へ云ふ、此の傷しき行幸の行列は軈て美作も過ぎ給ひて備中の北部即ち今の阿哲郡上刑部村より越へて同郡千屋へ、更に北へ国境明智峠より伯耆に入り日を経て八杉(安来)の地に入り給ひしと。
口碑に伝へて云ふ、中国山嶺の連嶽間に分入り幽谷の渓流に添ふて或は小径の嶮岨の煩ひ又は峻坂に喘ぎつゝ千屋の里に入り給ひし行列は西の高峯花見山に添ふて北へ名山剣嶽の麓を廻りて北に越え給はんとして、暫し明智峠の下にて憩はせ給ふ。時に路辺に大梅あり鬱々たる下に大いなる滑らかな石あり、御輿を出でさせ給へる聖上には、玉歩を此に印し給ひ此の石に倚りて輿中の屈を伸ばし給ひ休らひ給ふ事暫し、時恰も東天仄かに白み冴え切りし月の光漸く淡く、それと見る間に日陽漸く一抹の紫雲を払ひて上りぬ、申すも畏き事乍ら時の聖上の御宸襟や如何に……
悲しい哉、嗚呼傷しい哉、天性英邁、ゆゝしき古今の稽古の君、現津御神と大八洲国を治め給ひてやむごとなき御玉体は九重の雲深く清涼殿の御座に御坐ます可きに、安ぞ知らん、身を山狭の朝北風に曝らし給ひ、玉歩を畏くも此の地に印し給ひ、賎が怪しき苫屋の力細き煙を間近く玉眼に映ぜられ、細く流れて迸るセヽラギの音を哀れに聞かせ給ふ。
折柄の朝明けの移り行く四方の景色に御製一首、「夜はほのゞゝと明智峠、月は入野に日は成地」と此は其の時のものとして今に伝誦すれど、形体異なれば或は伝へ誤りしか、はた、他の偽作知る由なけれど、時の曉の景色が土地の名に因みて一首の御製となりしを聞き誤り若しくは伝へ誤りしか。(明智峠、入野、成地、共に附近の地名なり〉
時に地民等参り集ひて跪づき天顔を拝し奉り、辱けなさに事の由を知ると知らずとに依らず慟哭又切りに、聖駕又北へ進むにやむごとなき身に時ならぬ長途の御幸の傷しさよと、よゝと泣き義憤の涙長く消へず、畏き御身にかゝる御姿も長恨尽きぬ怨敵尊氏の為ぞと思へど身は賎しき一介の田舎漢、弓矢取る士に非らざれば焦心頻りなれども詮方なければ即ちせめてもの願ひに玉体に恙なく聖駕再び速に京師に帰り給ひ大御世を治め給ひて御代の一時も疾く静かならん事の祈りの為に此の玉体を憩はせ給せ玉歩を印し給へる所に祠を立て天神地祇を祈り現津御神と坐す大君の御璽をも齊き祭りて只管に世を祈り玉体恙無きを願ひ此の憩ひ給ひし岩は瑞垣を以て境し霊地とせり。
今に尚厳然として長さ一丈五尺幅一丈高さ三尺の伏したるが如き岩は瑞垣を以て一区を劃して霊地となし“休石”の名と共に残り、其の祈りし社祠も厳として後醍醐神社として今に至るまで祭祀を怠る事なく、時に有りし大梅も尚鬱々として宛然霊地をなす、附近の地名をも“休石”と称へて今日に及ぶ、彼等がかくて祈りは験有り、遠くは有らぬ船上山の名和氏の快挙を聞き年を経ずして聖駕再び京洛の地に、玉体も恙なく天意麗しく還幸有りしを聞きし時、如何に欣喜し御稜威の大いなるに感じ如何に雀躍せしことか。(阿哲郡千屋村竹上志乃夫)
やや難解だが、英邁な君主の悲劇をドラマチックに描いている。聖上をここまで苦しめる尊氏許すまじ、となるのだろう。この「休石」をあっさりと紹介している土井卓治編著『吉備の伝説』(第一法規)も読んでみよう。
伯耆街道沿いの新見市千屋の休石というところに四メートルばかりの大石があり、天皇の休まれたところという。「夜は明智(峠の名)、月は入野に、実は成地、何時も花見る休石かな」という地口がある。
「明地峠」「入野」「実」「成地」「花見」「休石」という千屋の地名が詠み込まれている。明地峠を越えればそこは伯耆国。鳥取県にも後醍醐天皇伝説があるようだ。鳥取県総務部広報課が発行するメールマガジン『とっとり雑学本舗』の第465号(2005年5月13日)の「とっとり豆知識」を読んでみよう。
●後醍醐天皇の遷幸ゆかりの地
鳥取県と関わりの深い歴史上の人物として、後醍醐天皇を外すことはできません。鎌倉時代末期に正中の変・元弘の乱と二度の倒幕計画に失敗し、京の都から鳥取県を通り、隠岐島(島根県)まで遷幸。隠岐島を脱出後は、再び鳥取県を通り、還幸。そして建武新政を始めるわけですが、還幸途上の船上山での合戦は特に名高く、鳥取県の史実を鮮やかに彩っています。
ところが県内での遷幸、還幸の足跡が確定していません。
後醍醐天皇は京都を出発後、兵庫県の須磨、明石を経て岡山県の院庄へ到着、そして鳥取県内に入ったようです。で、そこからが特に難解。岡山との県境周辺には後醍醐天皇の通過伝説が数多く残されていて、遷幸コースが幾通りも成り立つのです。
「岡山県久世から中和村を経て、鳥取県の下蚊屋に入った」、「岡山県美甘村、新庄村を経て、四十曲峠を越え鳥取県の板井原に入った」、「岡山県大佐町大井野を経て、伏谷を通り四十曲峠を越え、鳥取県の板井原に入った」、「岡山県大佐町大井野を経て、明地峠を越え鳥取県の根雨に入った」などが主なものでしょうか。
その通過伝説ですが、例えば下蚊屋(さがりかや、日野郡江府町)ではこのようなものです。
「後醍醐天皇がこの地を訪れ休まれたとき、村人は蚊屋を吊ろうとしたところ、蚊はいないから吊る必要はないと下げさせた。これを由来にこの地を下蚊屋と呼ぶようになった。」
下蚊屋から桝水高原の途中に御机(みつくえ、日野郡江府町)があり、ここにも伝説があります。
「この地を通過する際、特別に休む場所がなかったため、家の中に机を三つつなぎ合わせて休んでいただいた。以降、この地を三机と呼び、御机の地名になった。」
また、根雨(ねう、日野郡日野町)の近く、二部(にぶ、西伯郡伯耆町)には、山の中腹を平坦にして、後醍醐天皇の休息場をつくったという話が残っています。
後醍醐天皇はいずれかのコースを通って、米子市安養寺に到着。それから島根県の安来方面に向かったと考えられています。
しかし何故こんなにあちこに伝説が残っているのでしょう。知名度の高さ故なのでしょうか。影武者の存在も考えられます。
地図と伝説の残る地をつなぎ合わせて、自分なりの遷幸コースを考えてみてはいかがでしょうか。
遷幸ほどではないにせよ、県内の還幸コースも色々あるようです。これは別の機会に。(J)
通常、上方から山陰へ向かう場合には出雲街道で四十曲峠を通過する。天皇は本当に明地峠を越えたのだろうか。最初の引用文中の御製は地域を紹介するキャッチフレーズのようでもある。やはり二番目の引用文の通り地口、つまり言葉遊びなのだろう。険しい道中でこの歌を思い起こしながら峠へと歩みを進める。後醍醐伝説は旅人を慰め励ます道連れだったに違いない。