日本三大~と有名なものは3つにまとめたがる傾向があるが、不思議は7つ挙げられる。それだけ世の中には分からないことが多いのだろう。世界七不思議を筆頭に、不思議にはロマンがありミステリーがあって、みんな大好きだ。
川越市郭町ニ丁目の川越市立博物館に、川越城の七不思議「霧吹の井戸」がある。
普通の井戸にしか見えないが何が不思議なのか。新井博『川越の民話と伝説』(有峰書店新社)の「川越城の七不思議」には次のように記され、かつての井戸の写真が載っている。その頃の井戸は草木に囲まれ何かありそうな雰囲気だ。
川越城の東北のすみ、現在は農業センターになっている、その前に、石で囲いのしてある井戸がある。これが、むかしから語り伝えられている霧吹きの井戸である。
ふだんはふたをしておくが、万一敵が攻めて来て、一大事という場合には、このふたを取ると、中からもうもうと霧がたちこめて、すっかり城のまわりを包んでしまう。城は霧に隠れてしまって、敵からは見えなくなったという。したがって川越城は一名霧隠(きりがくれ)城ともいわれている。
さすがに「不思議」だけあって、ほんまかいなみたいな話だ。他にどんな不思議があるのだろう。同じく『川越の民話と伝説』から引用しよう。
初雁の杉
川越城内にある三芳野神社の裏には大きな杉の老木があった。しかし、枯れてしまったので伐り倒され、それが、つい最近まで神社のわきに置いてあった。
この辺は三芳野の里といわれ、『伊勢物語』に詠われている次の歌のように、むかしから有名な歌枕だった。
三芳野の田面(たのむ)の雁はひたぶるに 君が方にぞよると鳴くなる
わが方によるとなくなる三芳野の 田面の雁をいつかわすれむ
この歌に詠われる雁と、三芳野神社の杉について次のような言い伝えがある。
いつの頃からか、三芳野の田面の里に、毎年北のほうから初雁が、少しも時を違えず飛んできた。そして、いつも杉の真上まで来るとガアガアと三声鳴きながら、杉の回りを三度回って、南を指して飛び去ったということである。この故事によって、川越城は一名初雁城ともいわれている。
また、太田道灌がこの杉のこずえに旗を立てたということから、旗立の杉ともいっている。
人見供養
太田道真・道灌父子が川越城を築いたさいに、次のような悲しい物語があった。
川越城の三方(北・西・東)の水田は泥深く、また、ことに城の南には、七ツ釜という底なしといわれる深い所が七ヵ所もあった。こんな泥深い所だったから、築城に必要な土塁がなかなか完成せず、道真父子の苦心はたいへんなものだった。
ところが、ある夜、竜神が道真の夢枕に立っていわく、
「この地に城を築くのは、人力のとうてい及ぶところではないが、どうしても汝がここへ築城しようというのなら、一つよい方法がある」
道真、これを聞いて非常に慶び、
「では、そのよい方法とは?」
と問えば、竜神は、
「その方法とは、汝が人身御供(ひとみごくう)を差し出せば、必ず神力によってすみやかに成就する。それには、明朝一番早く汝のもとに参った者を、われに差し出せ」
道真は事の意外さに驚き、かつ不審に思いながら、明朝のことを考えていると、ふと思い浮かんだのは、毎朝だれよりも早く自分のもとに尾をふってくる愛犬の姿であった。ふびんとは思ったが、これも築城のためにはやむを得ない。
「承知しました。仰せのとおり明朝私のもとへいち早く来た者を、必ず犠牲(いけにえ)として差し上げます」
と、道真は竜神にかたい約束をしてしまった。
やがて夜が明けて、道真は昨夜の不思議な夢のことを思い出し、竜神に差し出す約束をした愛犬がかわいそうでならなかった。が、不本意ながら、城のため約束をはたそうと愛犬の来るのを待った。
ところが、どうしたことか、けさにかぎってなかなかやって来ない。と、その時道真の前に現れたのは、愛犬ではなくて、最愛の娘の世禰(よね)姫のつつましやかな姿であった。
さすがの道真も、失神せんばかりに驚き、姫がやさしく朝のあいさつをしたのにも応えられないで、眼には早くも玉の露を宿していた。
姫は父の前へつつましく両手をつき、昨夜見た夢の一部始終を物語るのであった。それは、くしくも父と同じ夢だった。姫はかたい覚悟をきめ、城のため、人のために一命を捧げようと、いつもより早く起きて来たといい、犠牲になることを父にお願いするのだった。
天下にその名を知られた勇将太田道真でも、いかに築城のためとはいえ、わが最愛の娘を竜神に捧げることは、たとえ竜神がどんなに怒ろうとも、とうていできないことであった。だが、姫のかたい決心には変りがなかった。
このうえは、父に内密にするよりほかはないと姫はある夜、家人のすきをうかがって館を出て、城の完成を祈りながら、七ツ釜のほとりの淵に身を投げて果てたのであった。このとうとい犠牲があってからのち、川越城はまもなく完成したという。
片葉の葦
浮島稲荷社の裏手一帯は、つい十年ぐらい前までは、水の湧き出る池が何カ所もあって、萱や葦が密生した湿地帯だった。自然の湧水を「釜」といったので、そういう所が七つあったところから、一名「七ツ釜」ともいわれている。
最近では、地下水位が下ったり、下水道が完備されたり、埋め立てが進んだりして、そこには川越市の診療所ができたり、住宅や商店などが建ち、かつて七ツ釜といわれた沢地のおもかげはうすれてきている。
この辺一帯の沢地は、田面(多濃武)沢(たのむのさわ)といい、むかしから『新古今集』などの歌によっても有名な所である。
ここに生える葦は、不思議なことに片葉で、次のような話が語り伝えられている。
たぶん戦国時代の出来事であったろう。川越城が敵に攻められて、落城もあすに迫ったときのことであった。
ときの城主に一人の姫があった。その夜、乳母に導かれてそっと城から逃げのび、ようやくこの七ツ釜のところまでやって来たが、足を踏みはずして釜の中へ落ちてしまった。驚いた乳母は懸命になって助けようとつとめたが、女一人の力ではどうすることもできなかった。
周囲を敵にとり囲まれているのも忘れて、大声で救いを求めた。けれども、だれ一人助けにきてくれる者はなかった。かわいそうに姫は、浮きつ沈みつ、ただもがくばかりであった。やっとのことで、川辺の葦にとりすがることができた。そこで、葦にすがって岸へはい上がろうとしたが、葦の葉がちぎれてしまい、また水の中へ戻されてしまった。とうとう力尽きた姫は、葦の葉をつかんだまま、暗い深い水底へ沈んでしまい、哀れな最期をとげたのであった。
だから、この沢地には生える葦は、姫のうらみによって、どれを見ても片葉である。
遊女川(よながわ)の小石供養
むかし、川越城主にたいそう狩猟の好きな殿さまがいて、毎日のように鷹狩りに出かけていた。この殿さまのお供をして、いっしょに出かけていた家来の一人に、たいそう美男子の若侍がいた。
ある小川のほとりを通るたびごとに、きまって一人の美しい百姓の娘に出会った。名前をおよねといった。若侍はいつの頃からか、この娘を恋するようになり、娘もまた、若侍の姿を待ちこがれる身となった。
こうしていく度もめぐり会いを重ねるうちに、いつしかすまいを問われ、名を問われるほどの間がらとなり、やがて縁あってこの百姓の娘は、十六の春、若侍の家へ嫁入りした。
二人の間はいたってむつまじかったけれども、若侍の母親、つまり姑は、武士の家へ百姓の娘は似つかわしくないといって、事ごとにおよねをいびったのである。
ある年の夏、虫干の折、およねは片付けものをしているうちに、この家に秘蔵されていた鉢を取り落として壊してしまった。それがまた、姑がいびるよい口実を与える結果となり、とうとうおよねは追い立てられるようにして、実家へ帰されてしまった。
その頃およねは、若侍の子供を宿していたが、ところが、自分では気がつかなかった。実家へ帰ってから、はじめてそれを知ったおよねは、せめてこのことを恋しい夫に知らせれば、ふたたび呼び戻してくれるのではないかと考えた。そして、かつて夫が殿さまの狩猟のお供をしてきて、自分とめぐり会った小川のほとりで待っていれば、いつかは再会できて、子供のことを告げられるだろうと思い、毎日そこへ出かけて行った。が、ついにめぐり会うことができなかった。殿さまはその頃、病気で狩猟に出られなかったのである。
それからしばらくして、およねは殿さまの御他界のことを知った。もう夫に会うことはできないと、およねはわれとわが身をあわれみ、夫と出会った思い出の小川の淵へ身を投げてしまった。
名もない小川は、このあわれな娘が身を投げたことから、やがて「よな川」と呼ばれるようになった。川の名は「およね」からきているとも、よなよなと泣く声が聞えるからともいわれている。現在は「遊女川」と書いて「よな川」と読んでいる。
いまでも若い人たちは、この小川のほとりを通るときは、
「およねさあーん」
とよんで、小石を拾って投げ込む。小石が底へ届いたと思われるじぶん、底のほうからあわが浮いて出てくるのを、およねさんの返事だといって彼女の霊を慰めている。
また、浮いてくるあわは、およねが嫁入りしたときの、定紋の形になって現われるともいわれている。
天神洗足(みたらし)の井水(せいすい)
太田道真・道灌父子が川越城を築城するとき、堀へはる水を、どこから引いてこようかと毎日踏査して歩いた。しかし、これという水源も見つからず、困っていたときのことである。
ある朝、道灌が何げなく初雁の杉のあたりを通ると、一人の老人が井水に足を浸して洗っているのに出会った。見れば、そこはこんこんと湧き出る泉だった。道灌は大いに喜び、これはまさしく、日ごろ信仰している天神の御加護であったかと、改めて感謝したのだった。
しばらくして、その老人に向い、この地に城を築く決意である旨を物語り、水源となっている場所を尋ねた。すると老人は、快く承諾し、さっそく道灌を水源へ案内してくれた。そこは、満々と水をたたえた底知れぬ深さの水源地だった。道灌は手をうって喜び、老人の好意に対して、心からお礼の言葉を述べ、再会を約して別れたのであった。
こうして、はからずも懸案を解決できた道灌は、この地に難攻不落の川越城を完成させることができたのである。
さて、かの老人とは再会の折もなく時をすごしていた。だが、かつて井水で足を洗っていたときの姿が、気品にあふれていたので、これぞ、まぎれもない三芳野天神の化身であったかと納得し、以来この井水を天神御洗の井水と名づけて大事にして、神慮にこたえたという。
以来道灌は、ますます敬神の念を深くし、有名な川越城内で連歌の会を催し、千句を天神に奉詠したのである。
なお、この水源地は川越城内清水御門のあたりとも、また、八幡曲輪とも、三芳野天神社付近とも言い伝えられている。城の堀の水源となったのはもちろん、城下周辺の用水としても利用されてきたのである。
城中蹄(ひずめ)の音
江戸時代初期の川越城主酒井重忠侯は、不思議なことに夜ごと矢叫(やたけび)や蹄の音にやすらかな眠りをさまされていた。天下に豪勇をうたわれた重忠侯だったが、あまりに毎夜続くので、ある日易者に占ってもらった。すると、城内のどこかにある戦争の図がわざわいして、侯の安眠を妨げているという卦(け)がでた。
そこで、さっそく家臣に土蔵を調べさせたところ、果して、堀川夜討の戦乱の場面をえがいた一双の屏風画がでてきた。
さすがの侯も、ことの以外さに驚き、考えた末、日ごろ信仰し帰依している養寿院へ、半双を引き離して寄進してしまった。すると、その夜からさしもの矢叫びや蹄の音も聞えず、侯は安眠することができたという。
現在でも養寿院では、このときの屏風画を秘蔵している。筆者は住吉具慶筆と伝える。
ありえないと言ってしまえばそれまでだ。なぜ七不思議が語り伝えられてきたかの方が重要だ。小江戸川越だけに江戸の遊びの影響を受けたのか、気候や地形の自然条件が影響しているのか、それとも本当に…。だから七不思議は面白い。