どの学年のことだったか、国語の教科書で「白鳥は哀しからずや…」の歌を習った。この作品は勝れて叙景的であると同時に、孤独な自分を投影できる叙情的な秀歌である。すぐに憶えて何度も口ずさんでみた。どこが舞台なのかと思ったらここだった。
千葉県安房郡白浜町根本(現南房総市白浜町根本)に「若山牧水の碑」がある。
イメージとしては抜けるような青空がよいのだが、この日は薄曇だった。それでも快晴ならば、さもありなんと思わせる景色である。まずは碑文、次に解説を読んでみよう。
牧水根本海岸で歌へる
白鳥は かなしからずや 空の青 海のあをにも 染まずただよふ
山を見よ 山に日は照る 海を見よ 海に日は照る いざ唇を君
大島の 山のけむりの いつもいつも たえずさびしき わが心かな
若山牧水と根本海岸
根本海岸は、若山牧水(明治18年―昭和3年・1885―1928)ゆかりの地である。
牧水は、明治40年(1907)から42年(1909)にかけて二度この地を訪れている。
一度目は、恋人の園田小夜子と熱愛の時期であり、二度目は小夜子との別離の後であった。
二度の滞在で、約百五十首にのぼる歌を残したが、それらの歌は牧水の代表的な歌集「海の声」、「独り歌へる」、「別離」に収められている。
吟遊詩人、牧水はこの根本海岸でその才能を開花させたと言っても過言ではない。
牧水といえば酒、酒といえば「酒は静かに飲むべかりけり」である。旅に出ると酒が呑みたくなり、飲めば景色は一層美しくなり旅情が高まる。旅と酒と史跡は切り離せない関係にある。
牧水歌碑の近くには、もう一つ文学碑がある。
白浜町根本に「己が罪の碑」がある。
この碑がある岩を「かぶと岩」といい、『己が罪(おのがつみ)』という小説の舞台だという。まずは解説を読んでみよう。
「己が罪」について
明治の文豪、菊池幽芳(明治3年―昭和22年・1870―1947)の長編小説「己が罪」の舞台となったのが、この根本海岸(かぶと岩)です。
「己が罪」が発表されたのは、明治32年(1899)。当時、大阪毎日新聞社で記者をしていた菊池幽芳は、この作品の成功により、一躍小説家としての地位を築きました。
遠く幾山河隔てながら、見えぬ縁にひき寄せられた母と子らの悲しみを描いた内容は、当時の現代新派劇としてたびたび上演され、家庭劇として観客の涙をさそい好評を博しました。
かぶと岩で何があったのか。子爵の子・正弘はこの岩の上でお山の大将を気取っている。満ち来る潮の危険を知っている漁師の子・玉太郎は正弘を助けようとする。正弘と玉太郎は母を同じくする兄弟であった。『菊池幽芳全集 第1巻』(日本図書センター)「己が罪」後編三一から一部を抜粋しよう。
かく決意せる玉太郎は手早く上衣(うはぎ)脱捨つると共に、猛然として近き岩より甲岩を目指せるなり、されど彼の予期せるには違ひて、今日は沖吹く風の強きに、潮のさし来る勢凄まじく、只一人徒渡(かちわた)らんにもやゝもすれば足を払はれんとす、左れど玉太郎は少しも恐ろしとせざるなり。
今しも一際高き波の澎湃(ほうはい)として、岩も砕けよとばかり、どツと甲岩に襲ひかゝり、その余波の全く甲岩の全面を蔽ひたる時に、あはや引倒されんとしたる正弘は、始めて金城鉄壁と頼めるわが立場の、脆(もろ)くも今は落城せんず有様に気づきて、驚ろきながら前後左右を見廻しぬ。
ここまで波が来るのかと思ったら、大正12年の関東大震災で隆起したのだそうだ。地学的な事象を文学によって知ることのできる貴重な場所であった。
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