風船爆弾。メルヘンチックな「風船」にそれとは不釣合いな「爆弾」が組み合わさり、よく言えば不気味な新兵器、はっきり言ってしまえば、おもちゃまがいの珍兵器のイメージである。しかし、実際は科学技術の粋を集積したハイテク兵器であった。そのことは鈴木俊平『風船爆弾』(新潮文庫・昭和59年)に詳しい。読んでから訪れるまでにずいぶんと時間がかかった。訪れてから記事にするまでまた時間がかかり、今こうして書いている。
2004年夏、いわき市勿来関文学歴史館で「フ号作戦と勿来 風船爆弾の記憶」という展覧会が開催された。当時、東京で働いていた私が東北へ帰郷する同僚に頼んで勿来まで連れて来てもらったのは、この展覧会を見て、その跡地を確かめるためであった。展覧会のチラシには次のように記されている。
約60年前、勿来には、フ号作戦の実行部隊である東部第12309部隊の第三大隊が展開し、風船爆弾(ふうせんばくだん)を放球しました。フ号作戦とは、和紙とコンニャクのりで作られた直径10メートルの気球に焼夷弾(しょういだん)を吊るし、ジェット気流にのせてアメリカ本土を直接攻撃する、国運を賭けた秘密の作戦です。
第三大隊の勿来基地から南に下ると、部隊本部と第一大隊のあった大津基地である。
北茨城市平潟町に「風船爆弾放流地跡 わすれじ平和の碑」がある。
朝の光で逆光となり台座部の碑文が見えにくい。文字に起こしてみよう。
新しい誓い 海のかなた 大空のかなたへ 消えて行った 青い気球よ あれは幻か 今はもう 呪いと殺意の 武器はいらない 青い気球よさようなら さようなら戦争 鈴木俊平作・書
これは『風船爆弾』の著者、鈴木氏らの手で建立された碑であった。風船爆弾の詳細は隣にある解説の碑文に記されている。読んでみよう。
風船爆弾放流地跡
この辺一帯は、昭和十九年十一月から昭和二十年四月の間、アメリカ本土に向けて風船爆弾を放流させた地です。背後の低い丘と丘にはさまれ、現在は田んぼに復元されている幾つもの沢に、放球台や兵舎、倉庫、水素タンクなどが設置されていました。
これは極秘の「ふ」号作戦といわれ、放流地はほかに福島県勿来関麓と千葉県一の宮海岸、あわせて三か所でしたが、大本営直属の部隊本部はこの地にあり、作戦の中心でした。
晩秋から冬、太平洋の上空八千メートルから一万ニ千メートルの亜成層圏に最大秒速七十メートルの偏西風が吹きます。いわゆるジェット気流です。風船爆弾は五十時間前後でアメリカに着きます。精密な電気装置で爆弾と焼夷弾を投下したのち、和紙とコンニャクのりで作った直径十メートルの気球部は自動的に燃焼する仕掛けでした。
第ニ次大戦中に日本本土から一万キロメートルかなたのアメリカ合衆国へ、超長距離爆撃を実行したのはこれだけであり、世界史的にも珍らしい事実として記録されるようになりました。約九千個放流し、三百個前後が到達、アメリカ側の被害は僅少でしたが、山火事を起したほか、送電線を故障させ原子爆弾製造を三日間遅らせた、という出来事もあとでわかりました。オレゴン州には風船爆弾による六人の死亡者の記念碑が建っています。ワシントンの博物館には不発で落下した風船の一個が今も展示され、深い関心の的になっています。
しかし戦争はむなしく、はかないものです。もう二度とくり返さないように努めましょう。この地で爆発事故のため、風船爆弾攻撃の日に、三人が戦死したことも銘記すべきでしょう。永遠の歴史の片隅で人目を忍び、いぶし銀のようにささやかに光る夢の跡です。
昭和五十九年十一月二十五日建之
県道354号線沿いに「風船爆弾犠牲者鎮魂碑」がある。上記碑文の語る大津基地における誤爆事故の死者を弔ったものだ。
「フ号作戦と勿来 風船爆弾の記憶」展のチラシには、風船爆弾を見た地元の方の証言が記載されている。
あっちの山からね、白くパッと上がる。今度こっちから上がる。ある程度上がるとね、きれいに並んでいくんですよ。
とにかくね、ぶらーん、ぶらーんと飛んでいくんだわ。そして夕方だからね、銀色みたいに見えて。
風船、いや気球の飛ぶ姿は、それが爆弾であっても牧歌的である。それでもやはり日米双方に犠牲者を出している。世界初の大陸間弾道弾はメルヘンと凶器性を併せ持つ不可思議な兵器であった。