県庁所在地は小学生でも知っている。語呂合わせでの覚え方もあるようだ。他の都市がどんなに町おこしをしようとも、知る知らないのレベルでは県庁所在地にはかなわない。首都の移転ではたくさんの自薦があったくらいだから、県庁があったならと思っている都市はきっとたくさんあるだろう。
流山市加一丁目の流山市立図書館(市立博物館)前に「葛飾県印旛県史跡」の石碑がある。
耳慣れない県名が登場したので説明板を読んでみよう。
葛飾県印旛県庁跡
明治2年(1869)に葛飾県の県庁となり、同5年(1872)には印旛県の仮県庁が置かれた。同6年(1873)に千葉県成立とともに県庁も千葉市に移転した。市立博物館(しりつはくぶつかん)は、昭和53年(1978)設置。
廃藩置県の断行は明治4年(1871)のことだ。それ以前に成立した葛飾県とは何か。そもそも今の流山市域の大部分は幕府領で一部が駿河田中藩(本多氏)の飛地となっていた。特に幕末には写真の地に田中藩の陣屋が置かれた。
明治元年(1868)、旧幕府領は明治新政府の下総知県事が管轄することとなった。同じ頃、田中藩の飛地は本多氏の移封(下総長尾藩)に伴って新政府に上知された。そして明治2年(1869)1月13日に、本格的な行政機関として葛飾県が設置された。この時、県庁が置かれたのが旧田中藩陣屋だったのである。
葛飾県は総石高約28万石、人口は約23万人であった。県知事は佐伯藩出身の水筑龍、次いで同じく佐伯藩の矢野光儀が務めた。
そして、明治4年(1871)7月に行われた廃藩置県によって302もの県が誕生したが、11月に行われた府県統合により72県に整理される。この時(11月13日)設置されたのが印旛県である。県庁は佐倉の予定だったが調整がつかず、旧葛飾県庁に仮県庁が置かれた。これが明治5年(1872)1月29日のことである。
印旛県は総石高約46万石、人口約46万人であった。県令には宮津藩出身の河瀬秀治、後に龍野藩出身の柴原和が木更津県権令と兼務で権令を務めた。
ここで注目したいのは、明治3、4年に第2代葛飾県知事を務めた矢野光儀(やのみつよし)である。明治4年11月に備中には深津県が設置され、矢野は深津県権令となる。深津県は後に小田県と改称され、明治8年(1975)に岡山県に合併されるが、矢野は合併までの4年間弱を権令として務めた。『岡山県歴史人物事典』(山陽新聞社)では次のように評されている。
深津県に着任するとすぐ、文部省の学制に先んじて小学校教育の布達をだし、議事条例を公布して笠岡に議事所を設置したり、各郡正副戸長の中から総代を選び小田県定例会を開くなど先進的・開明的な政治を行う。
’76年(明治9)の郵便報知新聞ほかの中央新聞に、「小田県管内は道路修繕は全く行き届き王道砥のごとし」、「岡山県の教員の学力と生徒の進歩は旧小田県に如かず」と書かれており、小田県の施政は全国でも注目に値するほど、先進的、開明的であった。
矢野光儀が地方長官を務めたのは文中で紹介の2か所だけだ。深津・小田県でこれだけのことをしたのだから、おそらく葛飾県でも何らかの事蹟があろうが、手元に資料がないので分からない。それでも、今日紹介した史跡は、この場所が地方の中心の一つとなっていた誇るべき事実を教えてくれるのである。