古代の日本と朝鮮半島の関係ほど分からないことが多いものはない。私が歴史を習った頃には、日本(倭)が半島南部に一定の支配地域を持っていたという見方をしていたものだ。ところが、それは一方的な見方で、実のところ半島南部諸国に官僚として仕えた、あるいは傭兵として戦った、または交易商人として活躍した、そんな倭人の活躍を表しているに過ぎない、とも言われている。
つまりは主体性が日本と半島諸国のどちらにあったのかという問題だ。歴史叙述は自国中心の書き振りになるものだ。それに、今の私たちは近代国家の概念、国境のイメージにとらわれすぎているきらいがある。そもそも当時の人々に国への所属意識はあったのか。彼岸此岸は今ほど明確でなかったのではないか。
日本と朝鮮半島の関係史の特集TVを見てそんなことを思ったものの、『日本書紀』を読んでいると国家意識がよみがえってくる。記紀編纂の狙いはそこにあるからだ。
大阪府泉南郡岬町淡輪に「西陵古墳(さいりょうこふん)」がある。国の史跡である。写真右にみさき公園の観覧車が見える。
この古墳の主は「紀小弓宿禰(きのおゆみのすくね)」だという。雄略天皇9年3月、天皇は「新羅が最近、調子に乗ってエラそうにしてるで。お前ら4人を大将とするさかい征伐してこいや」と命じた。この大将の一人が紀小弓であった。しかし小弓は妻を亡くしたばかり。これを大連の大伴室屋を通じて訴えると、天皇は同情して吉備上道采女大海(きびのかみつみちのうねめおおあま)を小弓に与えた。
小弓の活躍で一旦は新羅軍を撃破するが、残党の抵抗により同僚を失うなど苦戦が続いた。そして小弓自身も病没してしまう。妻の大海は夫の喪に服するため日本に帰り、大伴室屋に夫を葬る土地の付与を乞うた。大伴が天皇に奏上すると、天皇は次のように仰せになった。小学館『新編日本古典文学全集』3「日本書紀②」より引用
大将軍(たいしやうぐん)紀小弓宿禰(きのをゆみのすくね)、龍驤虎視(りゆうじやうこし)して旁(あまね)く八維(はちゐ)を眺(のぞ)み、逆節(ぎやくせつ)を掩討(えんたう)して四海(しかい)を折衝(せつしよう)す。然(しか)して身(み)を万里(ばんり)に労(いたづ)き、命(いのち)を三韓(さんかん)に墜(おと)す。哀矜(あいきよう)を致(いた)して、視喪者(はぶりのつかさ)を充(あ)つべし。又(また)、汝(いまし)大伴卿(おほとものまえつきみ)と紀卿(きのまえつきみ)等(たち)と、同国近隣(どうこくきんりん)の人(ひと)にして、由来(ゆらい)尚(ひさ)し。
天皇は、紀小弓の武勇を称えるとともに、異国での苦労をねぎらい、その地に没したことを哀悼している。
是(ここ)に大連(おほむらじ)、勅(みことのり)を奉(うけたま)はりて、土師連小鳥(はじのむらじをとり)を使(つかは)して、冢墓(はか)を田身輪邑(たむわのむら)に作(つく)りて葬(はぶ)らしめたまふ。
紀小弓の墓を「田身輪邑(たむのわむら)」に造らせたという。これが淡輪(たんのわ)の西陵古墳だというわけだ。近くにある五十瓊敷入彦命(いにしきいりびこのみこと)の陵墓よりも大きく、全国でも30位以内にランクインする巨大古墳である。
紀小弓が新羅と戦ったのは事実なのだろうが、彼は何のために戦ったのだろうか。日本の勢力拡大か、交易ルートの確保のためか、友邦百済の防衛のためか、功を成し名を遂げるためか、それとも勅命に従っただけなのか。妻の大海を守るためといえば、現代的すぎるか。悲しいことに、紀小弓にとって彼我の差はあまりにも大きいものとなってしまった。妻の大海の尽力によって、魂の帰る場所が故郷近くに造られたのがせめてもの救いである。