大河ドラマ『平清盛』の視聴率が低迷しているかどうかは、我が事にあらず。うちでは毎週欠かさず見ている。この前は「殿下乗合事件」で、摂関家の藤原基房が平家の怒りに恐れおののいていた。目を丸くしてビビる基房を好演しているのが細川茂樹である。さすがキャパの広い役者はすごいなと思う。
岡山市中区湯迫に「関白屋敷跡」がある。
この「関白」とは、承安二年(1172)に関白に就任した藤原基房である。基房は兄の基実が永万二年(1166)に若くして亡くなった後、摂政を継ぎ朝廷で大きな力を持つようになる。当然、摂関家の所領は自分のものになるべきと考えていた。
しかし、基実の死後、摂関家の所領は正室の盛子(平清盛の娘)に伝えられていた。基実の子である基通に所領を継がせるための一時的措置である。平清盛は基通にも娘(完子)を正室として入れるなど、基実の流れ(近衛家)と近しい関係にあった。
ところが、治承三年(1179)に盛子が亡くなると、基房は後白河院と謀って摂関家領を没収してしまう。これに反発したのが平清盛である。福原から大軍を率いて入京し、反平家派を一掃して後白河院を幽閉する。治承三年のクーデターである。
この時、基房は関白を解官され、いったん大宰府に配流が決まるが、間もなく出家して備前国に変更となる。こうして前関白殿は備前岡山にやってきた。ここで過ごしたのは1年間ほどである。
上の写真の中央の碑を「関白松公謫居遺基碑」といい、明和三年(1766)に岡山藩主の池田継政が隠居後に建立したもので、石碑そのものにも価値がありそうだ。拡大してみよう。
「松公」と「平相国清盛」の名が見える。松公は基房のことで、兄基実が近衛家の祖であることに対して、基房は松殿家の祖である。帰洛後の基房は、寿永二年(1183)に平家を都から放逐した木曽義仲のもとで復権を図る。『源平盛衰記』(博文館、明26)巻第三十五「木曽貴女の遺を惜む事」に、基房の美しい娘と義仲との関係が描かれている。もはや、義仲は義経に追い詰められ、基房の娘との別れを惜しんでいる。
木曽は院の御所をば出でたれ共軍場には出ざりけり五條内裏に帰りて貴女の遺(なごり)を惜みつゝ時移るまで籠(こもり)居たり。彼の貴女と申すは松殿殿下基房公の御娘十七にぞならせ給ひける類(たぐひ)なき美人にて御座しければ女御后にもと労(いた)はりかしづき進(まいら)せけるを木曽聞き及び奉りて押して掠(かすめ)取り奉る
義仲が基房の娘を奪ったように描かれているが、実際には基房から近付いたのではないか。一時期は日の出の勢いだった義仲のもとで、基房の子、師家(もろいえ)は12歳にして摂政、藤氏長者となる。松殿家の繁栄ここに始まる、とはならず、義仲の討死によって基房父子の政治生命も絶たれる。
いま大河ドラマでは、基房の弟、兼実を相島一之が演じ、先日は「天魔の所為なり」と『玉葉』の名句を叫んでいた。今は基房に従っている状況だが、彼の流れは九条家、二条家、一条家と発展し、近衛家、鷹司家とともに五摂家と呼ばれ、明治に至るまで摂政・関白を輩出することとなる。一方、基房の松殿家は歴史に埋没していくのであった。
話をかなり先へとすすめた。基房がまだ備前に滞在していた時に戻ろう。この地方の娘が基房に見初められたというサクセスストーリーである。地元のお寺と旧家の方が、「松殿と桜姫の由来」として、次のような伝説を説明板で紹介している。
桜姫は岡山市八幡松澤家に伝わる口碑によれば基房公謫居中の治承四年(一一八〇年)春のこと関白屋敷で桜の宴が催された折、地方豪族の一女の舞と歌が基房公の眼にとまり賞讃され桜花に因み「桜姫」の称を賜ったという。時にその一女は一三歳であった。この年基房公は京都に召還されたが、後に京よりの迎えに応じて一女は単身基房公の許に赴いた。同家所伝の系譜によればその子孫が松澤家の台祖大内蔵人少将藤原元次であるという。(一九八二年刊 永平寺史 口碑紹介記事による)
源平争乱のさ中に上京した姫は一六歳にて源義仲に嫁し義仲没後出生した鞠子(鎌倉二代将軍頼家の妻)の母となる。また後年は松殿の許にて元次の母として静かな一生を終えたと推測される。文献には松姫、従三位藤原伊子などの別名があり道元禅師の生母であるとする説もあるが今後更に研究を要するところである。
松殿基房公は有識故実の学識者の長老として寛喜二年 (一二三〇年) 十二月二十八日宇治小幡松殿山荘にて八七歳の天寿を全うした。(永平寺傘松誌掲載 国定美津子記より)
通説では木曽義仲に嫁いだのは基房の娘、伊子である。彼女は、のちに源通親との間に道元(曹洞宗開祖)となる男児をもうけたとの言い伝えもある。
しかし、ここでは義仲が名残を惜しんだ娘とは、実は備前生まれの桜姫だったということだ。松殿との間に元次という男児と、義仲との間に二代将軍頼家の妻となる鞠子をもうけたともいう。一般的には、鞠子は頼家の娘で四代将軍頼経の妻とされている。
情報のつまみ食いをすると、道元の母は、実は備前の豪族の娘だったということになる。そのきっかけをつくったのが備前に流された松殿基房であった。松殿を流したのが平清盛である。やはり清盛は歴史を動かした大人物であった。
ご教示ありがとうございます。勉強になりました。
投稿情報: 玉山 | 2013/12/27 22:13
将軍頼家と妻鞠子〈桜姫の娘〉との
間に生まれたのは竹御所(よしこ)で
次の四代将軍頼経の妻となったが、
産後に赤児と共に没した。このことは『吾妻鏡』に詳しく記してある。
『竹御所鞠子』は小説の名前です。
伊子(桜姫)が義仲の妻になる前から松殿の三男師家7歳は元服と同時に
義仲の娘の婿になっていた。九条家
文書・若狭領の項目に記述がある。
投稿情報: ふじわら | 2013/12/27 00:49