行ったことはないが、分倍河原駅前にナポレオン騎馬像のような新田義貞公の銅像があるそうだ。時に元弘三年(1333)、新田義貞の軍勢はここで鎌倉幕府軍を打ち破り、一気に鎌倉を目指し進撃していくのである。武将としての力量はライバル足利尊氏に引けを取らない。しかし政治的には完敗した悲劇のヒーロー、その最期の地をレポートする。
福井市新田塚町に「燈明寺畷(とうみょうじなわて)新田義貞戦没伝説地」がある。国指定史跡である。
この地が戦没地とされたのにはエピソードがある。福井市教育委員会が作成した現地の説明板を読んでみよう。
明暦二年(一六五七)農民がこの地の水田から鉄製冑(かぶと)を掘り出した。当時の藩軍学者井原番右衛門がこれを暦応元年(一三三八)閏七月にこの付近で戦死したと伝えられている新田義貞のものであると鑑定したことからこの地が義貞戦死の地と考えられるようになった。
福井藩主松平光通は万治三年(一六六〇)この地に、「暦応元年閏七月二日 新田義貞戦死此所」と刻んだ石碑を建てた。
以後この地は義貞戦死の地とされ「新田塚」とも呼ばれて、今日にいたっている。
写真のお堂の中に福井藩主の建てた石碑が保存されている。お堂の注連縄をよく見ると新田氏の紋、大中黒(一つ引両)である。鉄製冑は新田義貞を祀る藤島神社が保管している。
『太平記』(博文館、明31)巻第二十「義貞最期の事」を読んでみよう。
大将義貞は、燈明寺の前にひかへて、手負の実検しておはしけるが、藤島の戦強くして、官軍やゝもすれば、追立らるゝ体に見えける間、安からぬことに思はれけるにや、馬に乗替へ鎧を着かへて、纔(わづか)に五十余騎の勢を相従へ、路をかへ畔(くろ)を伝ひ、藤島の城へぞ向はれける。其時分黒丸の城より、細川出羽守、鹿草彦太郎両大将にて、藤島の城を攻めける寄手共を追ひ払はんとて、三百余騎の勢にて横畷(よこなわて)を廻りけるに、義貞覿面(てきめん)に行き合ひ給ふ。細川が方には、歩立(かちだち)にて楯をついたる射手ども多かりければ、深田に走り下り、前に持つ楯を衝き雙べて、鏃(やじり)を支へて散々に射る。義貞の方には、射手の一人もなく、楯の一帖をもたせざれば、前なる兵義貞の矢面に立ち塞(ふさが)りて、只的になしてぞ射られける。中野藤内左衛門は、義貞に目加(めくばせ)して千鈞(きん)の弩(いしゆみ)は鼷鼠(けいそ)のために機を発せずと申しけるを、義貞きゝもあへず、失士独免るゝは、我意にあらずといひて、尚敵の中へ懸入らんと、駿馬(しゅんめ)に一鞭をすすめらる。此馬名誉の駿足なりければ、一二丈の堀をも前々輙(たやす)く越えけるが、五筋まで射立られたる矢にやよわりけん、小溝一をこえかねて、屏風をたをすが如く、岸の下にぞころびける。義貞弓手(ゆんで)の足をしかれて、起きあがらんとし給ふ処に、白羽の矢一筋真向のはづれ、眉間の真中にぞ立ちたりける。急所の痛手なれば、一矢に目くれ心迷ひければ、義貞今は叶はじとや思ひけん、抜きたる太刀を左の手に取り渡し、自ら首をかき切りて、深泥の中に蔵して、其上に横(よこたわ)りてぞ伏し給ひける。越中国の住人氏家中務丞重国、畔を伝へて走りより、其首を取りて鋒(きっさき)に貫き、鎧太刀刀同じく取り持ちて、黒丸の城へ馳せ帰る。
中野藤内左衛門は「大将が雑兵を相手にしてはいけない」と諌めたが、新田義貞は「部下が倒れたのに自分独りが逃げるわけにいかない」と突き進んだが、自慢の馬が倒れ、義貞の左足が下敷きになった。起き上がろうとしたところに矢が飛んできて義貞の眉間に刺さる。もはやこれまでと太刀を左手に持ち、首を搔ききって自害したのであった。義貞の首は氏家中務丞重国が取った。
最期の時まで勇敢に戦い南朝に殉じた忠臣、新田義貞には明治15年(1882)に正一位が贈られた。盟友の楠木正成も正一位である。そういえば彼にもナポレオンのような騎馬像がある。さすが正一位、カッコいいぞ。