確かに「繁華街」と「歓楽街」は似ているが違う。どちらも華やかなのだが、昼に子どもも含め老若男女問わず楽しめるのが繁華街で、夜に酒と泪と男と女みたいなのが歓楽街というイメージがする。現代日本で最も有名な歓楽街は新宿の歌舞伎町だろうか。今日は800年前の歓楽街の話である。
尼崎市神崎町に「遊女塚」がある。
工場、新幹線、住宅に囲まれたこの地は、かつて「天下第一の楽地」と呼ばれていた。百人一首で知られる大江匡房(1041~1111)の奇書『遊女記』には次のように記されている。
到摂津国、有神崎蟹島等地。比門連戸、人家無絶。倡女成群、棹扁舟、着旅舶、以薦枕席。声遏渓雲、韻飄水風。経廻之人、莫不忘家。洲蘆浪花、釣翁商客、舳艫相連、殆如無水、蓋天下第一之楽地也。
摂津に神崎と加島があり、娼家が軒を並べている。遊女が群れを成して小舟に乗り、行きかう船に近づいて泊まってゆきなよと誘っている。客を呼ぶ声は川霧をとどめ、奏でる調べは川風とともに漂う。旅客もつい家のことを忘れてしまうほどである。洲には葦が茂り、波は花のようにきらめく。釣りを楽しむ客や酒食を売る船で川面は水が見えないほどだ。まさに「天下第一の楽地」である。
華やかさに酔いしれる者と、その裏に潜む空しさを感じる者がいる。神崎の遊女、宮城は後者だった。写真左の碑文を読んでみよう。
神崎はいにしへ湊にして西海に通ふ船ども多々こゝに泊り賑ひいはんかたなく遊女の家もありけり。建永二年(一二〇七年)三月法然上人讃岐国へ左遷され給ふとき山城の鳥羽より船にめされこの湊にかゝり給ひし折から遊女宮城といふもの小船にさをさして上人の御船にともづなをつなぎ上人に向ひて身の罪業深きをざんげし未来を助からん事を願ふ。上人いとゞ哀れにおぼしめし一度弥陀の本願に帰入し名号を怠らず修せば仏の光明に摂取して如何なる罪障も忽消滅し西方浄土に至らん事何の疑あるべしとすゝめる法の声髙く同音に念仏し給へば宮城と共に五人の遊女涙は袖の海となり諸共に合掌し導き給へ上人と云ふも敢ず五人一度に河波深き水底へ飛入空しくなる人々驚きろかいを以てさがせどもその甲斐なく漸くなきがらを求めてこの川岸に一つところに葬り上人諸共引導の念仏し給ふ。これより遊女塚と呼ぶものならし元禄五年(一六九二年)尼崎如来院よりこゝに墓碑を建て表に六字の名号裡にと遊女五人(宮城、吾妻、苅藻、小倉、代忍)の名をきざむ。むかし神崎川にゆり上橋といふあり遊女この川へ身を沈めたる屍を水中よりゆり上げしより橋の名となりぬとか。
津国のなにはのことは法ならぬあそびたはむれまでとこそきけ 遊女宮城
摂津浪花の遊び女も法華経に童子が戯れ遊ぶのもどこが違うというのでしょうか。後白河法皇が謡う「遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけむ」を思い起こさせる歌である。人は何のために生まれてきたのか。本当の生き方を求めて人は生きる。本当の悦楽を求めて人は生きているのだ。それは求道と何の異なることがあろうか。
深い。実に深い。性は生だというが、生の根源を問う緊張感のある命題である。この緊張感に堪えきれないのでMichael FortunatiのGive Me Upを聴いている。
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