アルジェリアではテロリストの掃討作戦が邦人を含む多数の犠牲者を出して終わった。隣国のマリでは北部を実効支配する反政府勢力にフランス軍が攻勢をかけている。砂漠の中での戦いである。水の確保はどのようにしているのだろう。水がなくては戦はできぬ。
羽曳野市壺井の壺井八幡宮前に「壺井水」がある。
地名は井戸ゆかりの「壺井」、その井戸は注連縄を張って大切に祀られている。こうした井戸は伝説が附随していることが多い。八幡宮でいただいた由緒書を読んでみよう。
前九年の役の際の天喜五年(一〇五七年)六月七日、源頼義公・義家公父子が賊と戦う時、大旱魃にて飲料水乏しく、まさに敗北せんとするときに、大将軍頼義公は、下馬脱甲合掌し干天に祈り「諸軍渇きに堪えかね、まさに敗せんとす。伏して願わくば軍中に水を得さしめ給え。帰命頂礼八幡大菩薩南無通法救世大士、擁護の手垂れ給え。」と申され、しばらく礼拝された後、自ら弓矢をもって岸壁を穿ち給えば、そこより清水が湧き出し熱渇はたちどころに除かれた。
これにより、諸軍は大いに勢いを得、遂に賊を誅伏することができた。凱旋の際、この清水を壺に入れて持ち帰り、城域内に井戸を掘り底に壺を埋めて壺井水と称した。以後香呂峰の地名は壺井と改められた。この井戸は現在も完全に保存されており、最近までは飲料水として利用されていた。
ところで、湧水は今の北上川となったといわれている。
天喜5年は源頼義にとって試練の年であった。7月、安倍頼時が死去したのを好機として、頼義は攻勢をかけるのだが、頼時の子、貞任と宗任の勢いは衰えることはなかった。11月、黄海(きのみ)の合戦において、頼義は大敗北を喫する。その後、清原氏の助勢を得て平定を成し遂げるのだが、困難な戦いだったことに間違いはない。この伝説もそうした状況を伝えるものだろう。
面白いのは、頼義が弓矢で掘り当てた湧水が北上川の源流となったという話である。実際に岩手県岩手郡岩手町に「弓弭(ゆはず)の泉」が源流として知られている。「弓弭」とは弓の両端の弦をかける部分であり、先に引用した文中の「弓矢」よりも正確な表現である。ちなみに岩手の伝説では岩を突いたのは源義家ということになっている。
「壺井水」の向こうに見える階段を上がって境内に進むと、巨大な樟が目に入る。巨木にも伝説はつきものだ。羽曳野市教育委員会『歴史の散歩道』には次のような記事がある。
壺井八幡宮の拝殿より約30mほど東南方の台地の隅にある樹齢800年という「樟」は、府の天然記念物に指定されている。
壺井の台地にこんもりと丸く茂っているため、約2kmの処からでもよく望見できる。
この樟は、源義家の5男の義時が天仁2年(1109)に「壺井権現」を創建したとき、記念のために植樹したものと伝えられてはいるが、真偽のほどは不明である。
樟の根元に建てられている府教委の説明板には「樹齢約千年」とあり、確かに真偽のほどは不明である。 源義時は河内源氏が河内を離れてからも現地に留まった石川源氏の祖である。
巨木に古井戸、どちらも由緒ある神社にふさわしい。聞くところによると、壺井八幡宮は「源氏三社」(他は京都・六孫王神社、摂津・多田社)の一つに数えられているそうだ。ここは清和源氏の聖地であった。