丸亀城バサラ京極隊というスタイリッシュな武将と姫から成る集団がいる。カッコいい活劇を披露した後に記念撮影をさせてくれるので、戦国が好きなうちの子どもと一緒に撮ってもらった。気に入ったのは「バサラ京極」というネーミングである。有名な戦国BASARAというゲームをイメージしたものではない。京極家こそバサラの本家本元であったのだ。
丸亀藩主・京極家の祖先に佐々木道誉という婆娑羅(ばさら)大名がいる。南北朝の動乱期に権威を嘲笑するような大胆な行為をするかと思えば、連歌に秀でた文化人でもあり、スケールの大きな武将であった。丸亀城で踊りまくる派手な若者たちはバサラのイメージに合致している。
京極に過ぎたるものが三つある にっかり茶壺に多賀越中
藩政時代の京極家は、このように謡われて羨ましがられていたという。「茶壺」は京極家旧蔵で現在はMOA美術館所蔵の「色絵藤花図茶壺」(国宝)のことだ。「多賀越中」は後で述べる。ここでは「にっかり」について紹介しよう。
「にっこり」と笑えばかわいいが、「にっかり」となると不気味だ。夜道で出くわしたにっかりと笑う女の幽霊を斬ったというのが「にっかり青江」という重要美術品の名刀である。京極家旧蔵で現在は丸亀市が所蔵する。青江は備中の名刀産地で、以前にレポートしたことがある。(青江鍛冶・前)(青江鍛冶・後)
その「にっかり青江」は、豊臣秀頼から京極家に譲られたものである。時は慶長19年12月、大坂冬の陣の和議交渉が京極忠高の陣において行われた。この時、徳川と豊臣との和睦をとりなしたのが、忠高の義母、淀殿の妹、将軍秀忠の妻・江の姉に当たる常高院であった。「にっかり青江」は労をねぎらう意味で忠高に贈られたのである。
京極忠高は慶長14年(1609)に、父・高次の9万2000石の遺領を継いで小浜藩主となっていた。寛永11年(1634)には出雲・隠岐26万4200石に転封された。同13年(1636)には石見銀山等4万石も預かる。京極領はここに最大期を迎えたのである。
松江市竹矢町の宝亀山安国寺に松江市指定文化財の「京極高次供養塔」がある。出雲における京極家の菩提寺である。
石に苔がついて古色蒼然としたたたずまいを感じさせる。父の旧領にちなむ越前笏谷石の青みががった美しさも映えている。塔の基礎の正面中央には次のように刻まれている。
(右)慶長十四巳酉奉
(中央)泰雲院殿前三品相公 徹宗道閑大居士神儀
(左)五月初三日
三品とは従三位、相公とは参議という、高次の位階と官職を表している。この供養塔は松江における殆ど唯一の京極家ゆかりの遺跡ということだ。
一昨年に松江歴史館の秋の特別展で『松江藩主京極忠高の挑戦』という玄人好みの展覧会が開かれた。「後の松江藩政の指針を示した大いなる挑戦」と高く評価されている忠高の治績として、「若狭土手」の造成が紹介されていた。治水は政治の要、水を治める者が国を治めうるのだ。
安来市大塚町字若宮に大塚両大神社が鎮座している。
先述の特別展図録には次のような記述がある。
伯太川の若狭土手は、安来市大塚にある。この地にある大塚両大神社は、棟札からその建立が寛永十六年(一六三九)である。京極氏転封直後に建った社殿は、今の堤防より低い位置にある。社殿は、京極期の堤防の高さに造られ、その社殿をよけて、松平期にさらに高く堤防が造成されたと考えられている。そのため社殿の高さが、京極期の堤防の高さだと推定されている。
水害を防いで新田開発に力を入れた忠高に感謝して、『大塚ふるさとカルタ』には次のような句がある。
「き」 京極忠高は土手を築いた郷土の恩人
しかし、忠高の治政は長くは続かなかった。寛永14年(1637)6月12日に参勤していた江戸で病を得て急死した。忠高に男子はなく、京極家は断絶の危機に陥るが、甥の高和が播磨龍野6万石で再興を果たす。その後、万治元年(1658)に讃岐丸亀6万石に転封となり、明治に至るのである。
丸亀市南条町の泰雲山玄要寺に「京極伊知子夫妻五輪塔」がある。右側の五輪塔に京極家の「四つ目結紋」があるので伊知子の墓だと分かる。「壽昌院殿茂林宗繁大姉」の法名が刻まれている。
京極伊知子は忠高のただ一人の実子である。若狭小浜に生まれ、寛永8年(1631)に家老・多賀家の常良に嫁した。子の高房は5歳で子のなかった高和の養嗣子となって江戸へ下ったが、その離別の情を綴った『涙草』は女性文学の傑作だそうだ。夫の常良は寛永21年(1644)に、伊知子は国替えにより丸亀に来て万治3年(1660)に亡くなった。
慶安元年(1648)、江戸への出立を前にはしゃぎまわる高房を見て、伊知子はこう綴っている。
この君は、いかにおぼし知る事にか、いささか別れを悲しとも思ひ給はず、ひたすら下り給はん事をうれしき事に思ひ、いそぎ給うて、はかなきもてあそび物を、人のたてまつるをも、「これは江戸の御母上のささげ物にこそせめ」としたためおき給ひつつ、「われも江戸の用意にいとまなしや」とのたまひて、はしりありき給へば、いとをかし。
世の常の子どものやうに、親のあたり離れがたく慕ひ悲しみ給はば、今ひとへ思ひもまさりて悲しからましを、なかなか心やすきものから、さすがに、かう何心なくいはけなきありさまに、ひき別れたてまつらむ悲しさは、やるかたなくぞありける。
この子は何を考えてんだか、少しも別れを悲しいと思わず、ひたすら江戸行きをうれしいことに思ってる。忙しそうにして、ちょっとしたおもちゃを人がくれるのに「これは江戸の母上にさしあげよーっと」としまいこんで、「ぼくも江戸行きの用意のひまがないよー」と、走り回っているのは、とってもおかしい。
普通の子どものように、親のそばから離れないで悲しそうにするなら、こちらも思いがつのって悲しくなるんだけど、そうではないので気楽なもんね。そうはいっても、こんなに無邪気であどけないようすを見ると、やっぱり別れが悲しく感じられる。
その後、高和には実子の高豊ができ、高房は跡継ぎにはならなかった。伊知子が嫁いだ多賀家は「多賀越中」として、丸亀藩の重臣として代々京極家をよく補佐したそうだ。小浜から松江へ、龍野を経て丸亀へ。たくさんの出会いがあり、同じ数だけ別れがあった。京極家の国替えは伊知子の旅でもあった。