元禄赤穂事件(忠臣蔵)の主役、大石内蔵助のリーダーシップ、危機管理能力、そして駆け引きの上手さには感心させられる。確かに偉大な人物だと思う。しかし、考えてみるがよい。彼を歴史の表舞台に引き出したのは、主君・浅野内匠頭の刃傷事件である。普通ありえない出来事で図らずも歴史に登場し、本人の才覚によって仇討ちを成功させ、普及の名を残すこととなった。
内匠頭が殿中でキレなければ、赤穂藩の名家老として人生を全うしたであろうが、全国的な知名は得られなかっただろう。今日は、名家老時代の大石内蔵助ゆかりの史跡である。
相生市相生二丁目に「大石良雄別邸の跡」がある。
こじんまりとした普通の庭にしか見えない。内蔵助が京都山科に閑居して時節を待っていたのはよく知られている。では、ここ相生と内蔵助との関係は? まずは説明板を読んでみよう。
大石良雄にゆかりのあるこの別邸は次のように伝えられています。
元禄七年(一六九四)、備中松山城の開城にあたって、浅野内匠頭が城の受取りを命じられましたが、病気のため家老の大石良雄にその名代を命じました。大石は流血を好まず、平穏のうちに城を明け渡させることに成功し、その功績として相生村を私領として賜わりました。そうしたことから、大石はこの中世以来の相生の名家海老名(えびな)家へよく来遊し、ことのほかこの庭を好んだので、いつしか大石さんの別邸と呼ばれるようになったと伝えられています。
その別邸は、明治二十九年に焼失してしまいましたが、現在庭の一部が残されています。
元禄七年の備中松山城開城について説明しよう。備中松山藩の第3代藩主・水谷勝美(みずのやかつよし)が元禄6年に亡くなった。実子がなかったので一族の水谷勝阜(かつおか、勝美の従兄弟)の長男勝晴(かつはる)を末期養子としたが、家督相続前に死去してしまう。そこで、勝晴の弟・勝時(かつとき)の家督相続を願い出るが許されず、水谷氏は無嗣断絶が決定する。
そして、大石内蔵助の登場と相成る。高梁青年会議所『高梁歴史読本』を読んでみよう。
松山城の城受取の使いとして、赤穂藩主浅野内匠頭長矩が任ぜられ、翌一六九四(元禄七)年家老大石内蔵助良雄が収城に来た。一時は水谷家では家老以下養子相続を主張し、城を枕に討ち死にというような気配もあって、物々しい警戒がされていたが、大石内蔵助が城中に入り、松山藩城代家老鶴見内蔵助に種々利害得失を説くという「二人内蔵助(ふたりくらのすけ)」の劇的な会談を遂げて後、無事、城の明渡しを完了したと伝えられている。
哲学者の鶴見俊輔は鶴見内蔵助の系譜に連なるらしいが、ここでは深入りしない。大石内蔵助は後に赤穂城を明け渡すことになった時、鶴見内蔵助の胸中と自分が説得した言葉を何度も思い出したに違いない。
有名な忠臣蔵も今日紹介している史跡にとっては後の出来事。大石内蔵助は松山城受取りの功績として、この地、相生村を拝領したのであった。内蔵助の遊んだ海老名家は、相生市域に広がる矢野荘の地頭を務めた名家であった。
この庭を見ながらゆったりとした時間を過ごしたであろう内蔵助に、かくも厳しい運命が待っていようとは。私たちにとって内蔵助の人生の花は、やはり討入りである。しかし、本人が最も幸せに感じていたのは、この海老名家に遊んだ頃だったかもしれない。