平将門と藤原純友は同じ時期に都の東西で反乱を起こした。両者は共謀したと考えるのは自然なことだ。室町時代の成立と言われる『将門純友東西軍記』(集文館、日本歴史文庫、M44)は、次のように記している。
然るに同年(承平六年)八月十九日、相馬将門藤原純友両人比叡山に登り、平安城を見下し、互に逆臣の事を相約す。本意を遂ぐるに於ては、将門は王孫なれば、帝王となるべし。純友は藤原氏なれば、関白とならんと約し終りて帰洛し、其後両人相共に国に帰る。
比叡山には「将門岩」があるという。「将門さんよ。あんたは桓武天皇五世の孫だから天皇になれ。おれは藤原氏で大叔父は基経さんだからよ、関白になるぜ」本当にそんなことを言ったとは思えないが、そう思わせる状況はある。そこに伝説が生じるのだ。
守谷市に「鈴塚(すづか)」というちめいがある。市内には相馬内裏あるいは相馬偽宮と呼ばれた平将門ゆかりの守谷城がある。伊予の藤原純友は京で将門と政府転覆を誓っただけではない。なんと盟友将門を訪ねて、はるばる守谷までやってきたという。『守谷のふるさとかるた』の「せ」の読み札である。
戦勝の 願い込めたり 鈴塚の謂れ
裏面の解説も読んでみよう。
将門かかつて京都にいた頃、藤原純友と親交を結び将来互いに志を得れば、兵乱を起こすことを約束しました。やがて純友は伊予で、将門は東国下総でそれぞれ兵を挙げることになりました。その時挙兵に先立ち純友は遥々(はるばる)東国に下り、将門と共に大鈴を埋めて塚を築き、お互いに戦勝祈願を行ったと言われています。それ以来この地を鈴塚(すづか)と呼ぶようになったとも伝えられています。
守谷市鈴塚に「日枝神社」がある。比叡山の麓にある日吉大社の系統の神社である。比叡山での共謀伝説は関東にまで舞台を広げていた。
神社の裏に塚がある。ここが大鈴を埋納したところだと思われる。
それにしても、なぜ大鈴なのか。神社に参拝して鈴を鳴らす。神様への呼び鈴かもしれない。神様、お参りしてますよってに、あんじょう頼んまっせ。その鈴を埋めるとは。戦勝を誓って埋め、大願成就の後は掘り出して鳴らそうとしたのか。「成せば鳴る」ということだろう。
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