つくばみらい市という平成の大合併で誕生した自治体がある。ひらがなで6文字の雰囲気重視の珍しい市名である。この市の商工会が毎年10月に開催する商工祭では「林蔵鍋」という大鍋料理がある。味噌ベースで豚肉や鮭のほか野菜たっぷりのおいしい鍋だそうだ。
つくばみらい市上平柳(かみひらやなぎ)に「間宮林蔵生家」がある。県指定史跡である。
生家に隣接して間宮林蔵記念館があり、銅像が立っている。手に持っているのは、海上測量に使った鉄製の鎖で、木製の浮が付いている。松岡映丘という日本画家は民俗学の柳田國男の実弟だが、この画家が明治43年に制作したのが「間宮林蔵肖像画」で、この銅像も肖像画での姿がモデルになっている。ただし肖像の原画は東京大空襲で行方不明となり、今知られているのは肖像画の写真である。
銅像の台座に林蔵を顕彰する言葉が刻んである。読んでみよう。
間宮林蔵(倫宗)先生は安永九年(一七八〇)常陸国筑波郡上平柳村(伊奈町)に生をうけ 幼少より才気煥発 小貝川堰止め工事の幕吏に認められて出仕 蝦夷地(北海道)の開発に従う 時あたかも四海の風雲急を告げ 天下の耳目北辺に集まる
林蔵 幕府の命をうけ 国境の果て北蝦夷を探る 極寒に身を挺すること二年 遂に間宮海峡を究め シーボルトをして その名を世界に轟かしむ 時に林蔵齢三十 正に「非常の人 非常の業」というべし
以来 星霜百八十年 漸くにして 待望の彫像建立の機熟す ここに篤志を得て 林蔵若き日の秘境探検の雄姿を刻み永く偉功を後世に伝えんとす 郷土の誇りこれに過ぐるものなし 間宮林蔵先生の精霊 降りて 英像に宿りたまわんことを
平成元年七月吉日
寄贈 伊奈ライオンズクラブ
撰文 大谷恒彦
林蔵の事績とその意義がうまくまとめられている。
林蔵の顕彰といえば、日本地理学の大家・志賀重昂(しがしげたか)の撰文による顕彰記念碑が、生家からやや上流にある専称寺の境内にある。「間宮先生埋骨之處(ところ)」との篆額がある。明治43年の建立である。
長い碑文の中でも有名なのがこの部分だ。
「先生之功烈愈顕而先生之墓石愈小也」と刻んである。世界的な偉業を成し遂げたにもかかわらず、その墓石のなんと小さいことか。対句の技法を用いて、林蔵の功績の大きさを印象深く表現している。
顕彰記念碑の裏には墓石があるのだが、確かに小さい。写真左の林蔵の墓石(上段)の高さは53cm、幅23cmである。生前に建立したものだという。写真右は林蔵の両親の墓である。
林蔵の墓石は東京にもある。林蔵の生活拠点が生家と江戸との二か所になったことによる。林蔵の後嗣も生家を継いだ鉄三郎と江戸の士分間宮家を継いだ孝順との二家に分かれている。
東京の墓石は東京大空襲で失われたので、生家近くのこの墓石がいよいよ貴重である。生家のあるつくばみらい市には、冒頭で紹介した林蔵鍋のほかに林蔵太鼓もある。かつて北方海域の開発を行った間宮林蔵は今、地域振興の地平を拓こうとしている。
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