「岩宿の発見」は日本考古学史に輝く金字塔である。昭和24年に相沢忠洋は関東ローム層の中から黒曜石の石槍を見付けた。関東ロームは1万年以上も前に火山灰が降り積もってできた地層であり、そんな環境には人は住めないと思われていた。そこに石器はあった。日本の旧石器時代の誕生である。
守谷市みずき野七丁目の郷州文化財公園に「原日本民族居住遺蹟」と刻まれた石碑がある。
日本民族の起源は不明な点が多い。列島にやってきたのは北方からか、南方からか。アイヌはどう関係しているのか。だから「原日本人」と聞けば、自分のルーツに思いを馳せ、様々に想像してみる。新興住宅地みずき野は、かつて郷州原と呼ばれる樹林地帯だった。ここに住みついたのはどんな人だったのだろうか。
2008年7月発行の「広報もりや第529号」生涯学習コーナー「守谷の小さな歴史(2)」によると、「原日本民族居住遺蹟」碑は昭和19年に慶応大学講師柴田常恵、文学博士斎藤隆三、考古遺物収集家石田庄七翁ほかの有志によって建立されたという。柴田は当時の著名な考古学者で、女性問題などで活躍する樋口恵子氏の父である。斎藤は地元守谷出身の風俗史家で郷土史にも詳しかった。この二人以上に石田翁の功績は大きい。読んでみよう。
石田庄七翁は、この郷州原から原始時代の石製品・土器類を発掘採集しましたが、石田翁の没後、教育資料として守谷小学校へ寄贈されました。
この中で特に貴重なのが、明治四二年(一九〇九)に採取されました打製石斧(せきふ)と思われる石器二点で、旧石器時代のものとされています。
そのほか、縄文時代の打製石器や石鏃(せきぞく)、弥生時代の磨製(ませい)石器、古墳時代の匂玉(まがたま)や双孔(そうこう)円板などを収集しています。
相沢忠洋(あいざわただひろ)氏の「岩宿の発見」は昭和二一年(一九四六)ですが、あの相沢氏でさえ、火山灰が堆積してできた赤土(関東ローム層)の中に、人類の痕跡があるとは、始めは信じられなかったと述懐しています。
石田翁は岩宿の三十七年前に旧石器を発見したことになりますが、明治時代の皇国史観の世の中では、なおさら旧石器文化の存在など考えも及ばなかったのでしょう。ですが、石田翁の発見は、日本の歴史を書き替えたかも知れないほどの偉業です。
「発見」は見付けただけではなく、認められてこそ「発見」となる。相沢忠洋は後に著名な考古学者となる芹沢長介に石器を見せたことで「発見」となっていったのだ。残念ながら石田翁の場合には、そんな機会がなかったのだろう。しかし、もしかしたら「郷州の発見」だったかもしれない偉業なのである。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。