歴史に名を残す人物ともなれば、母親にも史跡ができる。本ブログでは役行者、武蔵坊弁慶、蓮如上人、宇喜多直家、それぞれの母の史跡を紹介したことがある。歴史に名を残したのは本人の努力ばかりではない。そういう人物に育て上げた母親の功績でもあったのだ。やはりグレート・マザーの物語である。
姫路市別所町別所に「弁慶地蔵」がある。
地蔵堂の前を通る道は旧山陽道である。人々が行き交う場所にあるパワースポット。どのような由来があるのだろうか。姫路市教育委員会の説明板を読んでみよう。
泡子地蔵ともよばれ、凝灰岩質の板石に地蔵坐像を刻したもので、「天文二二年(一五三五)乙未八月廿六日」の銘文がある。もと佐土との境にある川の辺りに埋まっていたのを、今の場所に移したもので、かつては子宝地蔵として参拝者で賑わったという。
弁慶の母は、福居村(別所)の生まれで山廼井といい、父は熊野神社別当であるという。書写山に預けられた弁慶が、京からの帰途、福居村庄屋の娘玉苗と一夜を共にしたのが、この地蔵堂であると伝えられている。
これを読んで思い当たるのは『義経記』の弁慶出生譚である。弁慶の血筋は大変良い。父は関白藤原道隆の後胤で熊野別当の弁せうで、母は二位の大納言の姫君である。しかし、懐妊してから出生まで18か月もかかった。父の弁せうは不審に思った。『義経記』巻第三を読んでみよう。
弁慶生まるゝ事
別当、此の子の遅く生まるゝ事不思議に思はれければ、産所に人を遣はして、「いかやうなる者。」と問はれければ、生まれ落ちたる不思議は、世の常の二三歳ばかりにて、髪は肩のかくるゝ程に生ひて、奥歯むか歯は、特に大きく生ひてぞ生まれけれ。別当に此の由を申しければ、「扠(さて)は鬼神ござんなれ。しやつを置いては、仏法の仇となりなんずるぞ、水の底にふしづけにもし、深山に磔にもせよ。」とぞ宣ひける。母これを聞き、「それはさる事なれども、親となり子と成る事も、此の世一つならぬ事ぞと承る。忽(たちま)ちにいかゞ失はん。」となげき入りてぞおはしける処に、山の井の三位といひける人の北の方は、別当の妹なりしが、別当に、をさなき人の御不審をとひ給へば、「人の生まるゝと申すは、九月十月にてこそ極めて候へ。既に此の者は、十八月に生まれて候へば、助け置きても親のあたともなるべく候へば、助け置く事候まじ。」と宣ひける。をば御前聞き給ひて、「腹の内にて久しくして生まれたる者、親の為に悪しからんには候はず。それ唐の黄石が子、腹の内にて八十年の齢(よはひ)を送り、白髪生ひて生まれける。年は二百八十歳。たけ低く色黒くして、世の人には変りけり。されども八幡大菩薩の御使者、あら人神といはれ給ふ。唯みづからに賜はり候へ。京へ具して上り、能くは男になして、三位殿へ奉るべし。悪しくは法師にもなして、経の一巻も読ませたらば、そうとうの身として、卻(かへ)つて親をも導くべし。」と打ちくどき申されければ、さらばとて叔母に取らせける。
赤ん坊の異常な出生に後難を恐れた父・弁せうは、これを殺そうとする。これに対し父の妹である「山の井の三位といひける人の北の方」は、「中国の黄石の子どもはお腹の中で80年過ごし、生まれた時には白髪だったそうですよ。280歳まで生き、背は低く色黒で、とても普通には見えません。それでも八幡大菩薩のお使いをして現人神と呼ばれたのです」と、荒唐無稽な例を引き合いに説得し、赤ん坊を引き取ったのであった。
別所の「弁慶地蔵」に登場する弁慶の母「山廼井」は「やまのい」と読む。父を熊野神社別当とする。これが『義経記』をベースとしていることは明らかである。ただし、『義経記』では弁慶の叔母で育ての親、しかも身分が高そうだが、「弁慶地蔵」では実母で地元出身とされている。
弁慶の母について長々と記してきたが、弁慶地蔵は母の史跡ではない。この村の庄屋の娘・玉苗が弁慶と一夜を共にした場所であった。「高野聖に宿貸すな、娘取られて恥かくな」のような話である。
そんな場所をなぜ顕彰する必要があるのか。いや、そんな場所だからこそ「子宝地蔵」として信仰を集めたのである。弁慶の行状はどこまでが本当の話なのか分からないが、山陽道を行き交う旅人を楽しませてくれたパワースポットには間違いない。
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