京王電鉄「聖蹟桜ヶ丘駅」こそ、美しすぎる駅名であろう。なんでも明治天皇ゆかりだそうで、高貴で華やかであり、かつノスタルジックな雰囲気が漂ってくる。この聖蹟桜ヶ丘駅に通じるバス路線に「対鴎荘前(たいおうそうまえ)」というバス停がある。やはり京王バスだ。カモメに向き合う家とは、これもまた風流だ。
バス停があるのは多摩市連光寺三丁目なのだが、行ったことがない。聞くところによると、バス停の周辺には「対鴎荘」という建物はないそうだ。そこで調べてみると、連光寺一丁目の「対鴎台公園」に、対鴎荘は昭和63年まで実在していたということだ。
しかし、多摩丘陵でカモメとはおかしい。それもそのはず、多摩に移築されたのは昭和初期で、それ以前には、ユリカモメ(都鳥)の有名な隅田川河畔にあったのだ。やはり、明治天皇ゆかりの建物として。
台東区橋場二丁目に「明治天皇行幸對鷗荘遺蹟」と刻まれた石碑が立つ。「正二位勲一等伯爵田中光顕敬書」とあり、明治天皇の宮内大臣をつとめた田中光顕の書であることが分かる。碑は台東区側に建てられているが、「対鴎荘」は白鬚橋の西詰、荒川区側にもまたがって建てられていた。
この「対鴎荘」に明治天皇が行幸したという。ここには誰が住んでいたのだろうか。台東区教育委員会の設置した説明板を読んでみよう。
隅田川畔の橋場一帯は、風光明眉な地であり、かつては著名人の屋敷が軒を連ねていたという。対鷗荘もその一つで、明治時代の政治家三条実美(一八三七-九一)の別邸であった。
「征韓論」をめぐって、政府内に対立が続いていた明治六年(一八七三)の十月、太政大臣の要職にあった実美は心労のあまり病に倒れ、この別邸で静養していたが、同年十二月十九日明治天皇は病床の実美を気使い、この邸を訪れている。
隣の碑は、この事跡を顕彰して、のち対鷗荘の所有者となった一市民の尽力によって建立されたものである。高さ三メートル余。側面に「昭和六年歳次辛未五月建之石井久太郎」、裏面に「多摩聖蹟記念館顧問中島利一郎謹撰 上条修徳謹書」の碑文が刻まれている。
対鷗荘は、昭和三年(一九二八)、白髭橋架橋工事に伴い、多摩聖蹟記念館(多摩市連光寺)に移築された。
対鴎荘が三条実美の別邸で、明治天皇が行幸した場所であり、昭和初期に多摩市連光寺に移築されたことが分かる。ちなみに多摩聖蹟記念館は田中光顕が建設した。これで多摩のバス停にのみ存在する幻の「対鴎荘」の謎が解明した。納得である。
気になるのは征韓論をめぐって心労のあまり倒れてしまった三条実美公である。
時は明治6年、岩倉具視不在の留守政府を預かる西郷隆盛は、朝鮮の日本蔑視に憤っていた。
西郷 「朝鮮の態度は許せん。おいが話をしに行く。場合によったら戦争だ。三条さぁ、すぐに閣議を開いてくいやんせ。」
三条 「まあ、そないにあわてへんで、岩倉はんが帰ってくるまで待っておくれやす。」
西郷 「すぐに戦争を始めごとちゅうのじゃなか。話をしに行きたいのだ。こんままにしておくと、もすもす事態は悪くなう。」
三条 (西郷はんは本気や。怒らせたらエライことになるかもしれへん。やはり閣議を開くことにしよけ。)
8月17日 閣議で西郷の朝鮮派遣が決定
8月19日 そのことを三条は明治天皇に上奏 天皇は岩倉の帰国後に再評議を行うよう指示
9月13日 岩倉が帰国
10月9日 三条が閣議を12日に開くと予告
ところが、前日になって…
三条 「やっぱり閣議を開くんは14日とします。」
西郷 「何をゆとうのか。天皇に上奏しじぁとゆうこたあ決定済みじゃなかか。岩倉さぁは早く認むうべきだ。兵士たちの不満が爆発すうかもしれん。これがかなわぬのなら、もはや死ぬまでだ。」
三条 「難儀なモンや。なあ、岩倉はん、どないしたらええやろうか。」
岩倉 「そやな。大久保はんの言うように国内でせなならへんことも多いし、朝鮮への派遣は延期にして、とりあえずロシアとの樺太問題を先に話し合おか。」
10月14日 閣議が開かれる。西郷と岩倉の主張が対立し結論出ず。
10月15日 閣議が開かれる。
西郷 (言うべきこたあ昨日すべて言った。今日の閣議は欠席すう。)
三条 「ここで西郷はんに辞められたら、エライことになる。こないなったら、朝鮮への派遣で決まりや!」
岩倉 「あんたは何を言うとるんか、大久保も木戸も怒って辞めてしもたおへんか。こうなってしもたんは、あんさんのせいや。うちも辞めたる。」
三条 「みんな怒らせてしもた。どないしたらええんや。天皇にも説明でけへん。もう無理や。」パタッ。
10月18日に三条は錯乱状態となり倒れてしまった。20日には麻布鳥居坂の三条家本邸に明治天皇が訪れた。三条は辞職を求めたが天皇はこれを許さず、静養に努めるようお言葉があった。
病状が落ち着いた三条が移って療養を続けていたのが、今日紹介している三条家の別荘「対鴎荘」である。12月19日、天皇が再びお見舞いに訪れ、三条に優しく言葉をかけられた。恐縮した三条は、後日再び辞職を求めたが、またもや天皇は認めなかった。
征韓論では優柔不断な姿を見せてしまったが、実直な人柄で天皇の信頼は絶大だった。死の直前には正一位という最高位を与えられている。これは正一位の生前叙位、最後の例だそうだ。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。