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歴史上の人物を勝者と敗者に分類するならば、榎本武揚は間違いなく敗者であったはずだ。なにしろ明治新政府に対する抵抗勢力の首魁だったのだから。処刑されたとしても不思議ではない状況であったが、その才能ゆえに助命され、明治政府の要職に上り詰めていくのである。
墨田区堤通二丁目の梅若公園内に「正二位勲一等子爵榎本武揚像」がある。大正2年5月に建てられた。
原型作者は田中親光と藤田文蔵、鋳造者は平塚駒次郎ということだ。藤田文蔵は外務省にある陸奥宗光像の制作、平塚駒次郎は上野恩賜公園の有名な西郷隆盛像の鋳造も行っている。
なぜ榎本像がこの場所にあるのか。榎本はチャキチャキの江戸っ子(御徒町生まれ)であり、晩年も東京で過ごし、旧居跡の表示が墨田区向島五丁目にある。この地は榎本の愛した場所であり、政界引退後は、墨堤(ぼくてい)と呼ばれる隅田川の土手を散策する姿が見られたという。
晩年のエピソードが『世界人物逸話大事典』(角川書店)に紹介されている。
武揚は何度か大臣になったが、決して地位を利用して蓄財などせぬ清廉な江戸っ子であった。晩年は東京向島の風景を愛し、ことに百花園が好きでよく訪れ、そこで酒を飲むのを楽しみにしていた。百花園にある永機の句碑、「朧夜や誰れを主の隅田川」を見て拙いと言い、酔狂のあまり、「隅田川誰をあるじと言問はば 鍋焼うどん おでん 燗酒」と書いて、「どうだ、うまいだろう」と大笑いしたこともあった。(加茂儀一『榎本武揚』)
「百花園」は現在、東京都の管理する「向島百花園(むこうじまひゃっかえん)」である。文化二年(1805)に開園した歴史ある庭園だ。「永機」とは其角堂永機(きかくどうえいき)という俳人で、芭蕉の高弟、宝井其角の流れを汲む七世其角堂である。榎本の見た句碑は今も百花園で見ることができる。
榎本武揚は外務大臣や文部大臣など要職に就くのだが、明治政府における最大の功績は、樺太千島交換条約の締結であろう。現在、ロシアはクリミアを武力を背景に編入し、欧米から強く非難されている。さらにはウクライナ東部における親露派武装集団の庁舎占拠、その背後にロシアがいることも指摘されている。それを思えば榎本が交渉にあたって平和裡に解決した樺太千島交換条約の意義は大きい。
人間の運命とは分からないものだ。新撰組の土方歳三のように幕府に殉じたヒーローになるかと思えば、外交を舞台に意義ある条約をロシアと結び、大臣にまで上り詰め、長生きをして悠々自適。敗者から勝者への見事な変身であった。
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