「昔男」という言葉を初めて耳にしたとき、思い出したのは「古い奴だとお思いでしょうが、古い奴こそ新しいものを欲しがるもんでございます。」のセリフだった。
昔気質の男、古風な男が『伊勢物語』に登場するのではない。「昔男」と呼び習わす『伊勢物語』の主人公は、当代きってのプレイボーイ、在原業平だとされている。
『伊勢物語』の圧巻だと私が思うのは、東下り隅田川の場面である。関係部分を引用しよう。
なほ行き行きて、武蔵の国と下つ総(ふさ)の国との中に、いと大きなる河あり。それを隅田河といふ。その河のほとりにむれゐて、思ひやれば、かぎりなく遠くも来にけるかな、と、わびあへるに、渡守(わたしもり)、「はや舟に乗れ、日も暮れぬ」と言ふに、乗りて、渡らむとするに、みな人ものわびしくて、京に思ふ人なきにしもあらず。さるおりしも、白き鳥の、はしとあしと赤き、鴫(しぎ)の大きさなる、水の上に遊びつつ魚(いを)を食ふ。京には見えぬ鳥なれば、みな人見知らず。渡守に問ひければ、「これなむ都鳥(みやこどり)」と言ふを聞きて、
名にし負はばいざこと問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと
と詠めりければ、舟こぞりて泣きにけり。
どんどん進んで行くと、武蔵と下総の境に大きな川があった。それは隅田川であった。川のほとりに集まって都を思えば、ほんま遠くまで来たもんや、と切なくなる。船頭が「早く舟に乗ってくんねえか。日が暮れちまうぜ」と言うから、乗って川を渡ることにした。みんな心細くなって、都に残してきた人を思い出していた。そのとき、白い鳥で口ばしと脚が赤く、シギくらいの大きさのが、水の上にたわむれながら魚を獲っていた。都では見たことのない鳥だったので、誰も名前を知らない。船頭に尋ねてみると「こいつは都鳥でさあ」と答えた。それを聞いて
なあ鳥はん ミヤコっちゅう 名やったら まろの好きやん どないしてんね
と詠んだら、船中の人はみんな泣いたのだった。
荒川区南千住三丁目の石浜神社境内に「都鳥歌碑(伊勢物語の歌碑)」がある。荒川区登録有形文化財(歴史資料)である。
文化二年(1805)の建立で、「武蔵の国と」以下の文と都鳥の歌が刻まれている。下に半分ほど描かれている舟で物語の情景を想像させる風流な仕掛けまである。
実際に在原業平が来訪したのかどうかは分からない。しかし、同様な旅をした「昔男」がいたことだけは確かだ。古代東海道の痕跡だという道がこれだ。
この道を進むと鐘ヶ淵駅に着く。東武スカイツリーラインに乗ると、東京の新名所はすぐだ。今はこんな都会だが、業平の時代はどのような風景だったのか。泣かねばならぬほどの鄙びた土地だったとは、想像さえ難しい。
先日から二つの隅田川にまつわる話をしている。前回は「梅若塚」が二つあることを紹介した。今回も同じ展開である。
春日部市粕壁の春日部八幡神社参道入口に「都鳥の碑」がある。
この地に流れるのは古隅田川。古い隅田川だから、業平が訪れたのはこちらだったのだろうか。説明板を読んでみよう。
「名にしおはばいざ言問はん都鳥
わが思ふ人はありやなしやと」
この歌は、在原業平(平安初期の歌人)が奥州に旅をしたとき、武蔵国と下総国との境にある隅田川の渡しで詠んだものである。往古当神社の辺りが両国の境になっており、奥州への通路にもなっていました。この石碑は、その故事を後世に伝えんと、江戸末期嘉永六年(一八五三年)粕壁宿の名主関根孝熙が千種正三位源有功に依頼し由緒をあらわしたものです。
千種有功(ちぐさありこと)は村上源氏の流れを汲む公卿。幕末の公卿といえば尊攘派が思い起こされるが、こちらは歌や絵の上手な文化人である。
はたして伊勢物語の舞台は、東京か春日部か。東武伊勢崎線を使ってのold boy(昔男?)の史跡めぐりでございました。
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