「TKG」とは何のことかと思ったら、「卵かけご飯」だった。卵かけご飯は手間とお金がかからない優れたB級グルメである。思わず「キミが好きだ!」と叫んでしまうくらいウマい。岡山県久米郡美咲町では卵かけご飯をウリにしている。それは、この町の偉人、岸田吟香が卵かけご飯を愛好し日本に広めたことによる、ということらしい。
墨田区堤通二丁目の隅田川神社に「岸田吟香翁碑」がある。撰文は三島中州(大正天皇の侍講)、書は日下部鳴鶴(明治三筆の一人)、篆額は揚守敬(中国を代表する書家)という豪華な碑で、明治45年の建碑である。
岸田吟香と聞いても?の方も多かろう。画家の岸田劉生の父、つまりは「麗子像」のおじいさんである。しかし、吟香翁は我々が知らないだけで、実はなかなかの実業家だという。
どれほどの人物なのかは、この顕彰碑を読めば分かるはずだ。ただし、浅学にして読めない字が多いうえ、一部落剝しているので、磯ケ谷紫江『墓碑史蹟研究』第5巻(後苑荘、昭2)を参考にした。
翁諱国華称太郎後改銀次吟香其号美作久米郡垪和邨人考諱徳義妣沼本氏翁幼有大志好読書師津山昌谷精谿嘉永中遊江戸入林図書頭及藤森弘庵門業成仕挙母矦為侍読安政中幕府大捕横議之士弘庵与焉翁致仕避嫌上野備甞酸苦元治元年遷横浜発刊藻塩艸為本邦新紙権輿未幾応米人遍凡聘編和英対訳字書為本邦対訳字典濫觴受遍凡方製眼薬精錡水開店兼鬻諸薬及書籍号楽善堂又剏設汽船冰室石油等諸商社明治七年為東京日報社載草従台湾之役報軍状十三季置支店於清国上海因歴遊諸省著方輿全図多招諸生学清語及清国之役起皆大為用二十九年 朝廷録功叙勲六等賜金五百円先是盲唖学校亜細亜協会東亜同文会同仁会等剏立皆与有力焉三十八年六月疾篤 特旨叙従六位七日終不起距生天保四希四月八日寿七十三葬谷中塋配小林氏挙七男五女次男艾生嗣翁貌魁偉性温篤有機略凡済世利民之事知無不与焉頃知友胥謀欲樹碑於墨田祠畔呂不朽之徴余銘ニ曰
維新諸業 翁実唱始 見幾制先 百蹶弗巳 及事就緒 模傚競起 後者勝先 功譲嚆矢 大書深刻 遠諗干祠
岸田吟香は「国華」「太郎」「銀次」など様々な名を持つ。碑文には書いていないが、若い時分に他人から「銀公」と呼ばれ、それをそのまま雅号「吟香」としたという。生まれの「美作久米郡垪和邨」は今の岡山県久米郡美咲町栃原である。江戸に出て「林図書頭」らに学んだり、三河国「挙母矦(侯)」の侍読となったりした。
元治元年(1864)、吟香は眼を患い「米人遍凡」アメリカ人医師ヘボンの治療を受けた。ヘボンとの出会いが吟香の人生を飛躍に導く。ヘボンといえば「し」を「shi」と表記するヘボン式ローマ字で知られる。彼は「和英対訳字書」『和英語林集成』を編集した言語学者でもあった。吟香はこの辞書の編集を助け、視野を広げていくのである。
日本初の液体目薬「精錡水(せいきすい)」の販売とその効果的な宣伝は、吟香の仕事の中でも特に知られている。この目薬の製法もヘボン直伝だった。下の写真はこの関連部分である。
吟香は新聞人としても著名である。横浜で「藻塩艸」『横浜新報・もしお草』を発刊し、「東京日報社」の東京日日新聞(現在の毎日新聞)では「台湾之役」の観戦記を連載し好評を博したという。
商売も手広く行い、「楽善堂」という薬や書籍を扱う店を開いたほか、「汽船冰室石油」と記されているように、江戸横浜間の定期航路、北海道の氷、越後の石油にもチャレンジした。
また、楽善堂は「清国上海」をはじめ中国各地に進出し、『中外「方輿全図」』という地図を刊行した。「盲唖学校」(現在の筑波大学附属特別支援学校)や「亜細亜協会」「東亜同文会」「同仁会」という中国進出に関係する団体の設立にもかかわった。
「天保四希四月八日」に生まれ、明治「三十八年六月」に「寿七十三」で亡くなった。「配小林氏」(勝子)との間に「七男五女」をもうけ、画家の劉生は四男である。「次男艾生」(かいせい)が継嗣となり、彼自身、その子、孫と吟香の名を襲名したという。
「翁貌魁偉」とあるように、立派なヒゲでイカツク見えるが、「性温篤」で多くの人に慕われ、その葬儀では弔辞が机上に山をなしたという。
これほどの大人物がTKGが好きだったとは、実に庶民的でよい。現在、毎日新聞社の主催で「岸田吟香・劉生・麗子 知られざる精神の系譜」という展覧会が東京から岡山へと巡回している。いよいよ、黄金週間。明治が生んだ知られざる巨人の実像を確かめに行くのもよいだろう。