細川護熙元首相は立派な方だ。陶芸家として悠々自適に生活する殿様かと思っていたら、骨のある武士だった。そう思ったのは今年初めに東京都知事選に立候補した時だ。脱原発の主張が明快でよい。さすがに年を取った印象はぬぐえないが、それでも行動を起こす、その心意気に敬意を表したい。
細川元首相の先祖をたどれば、細川ガラシャの夫である忠興に行きつく。その父、藤孝(幽斎)は、細川氏のうちでも傍流の和泉上守護家の出身である。忠興は同じく傍流の奥州家、細川輝経の養子となる。だから、系譜上は熊本藩主は奥州家の流れを汲むということになる。
その奥州家の系譜を遡って行き着くのが、今日の人物、細川頼貞である。法名を義阿(きあ)という。まだ、細川氏が三河国額田郡細川郷の土豪だった時代の2代目俊氏の子である。兄の公頼が宗家を継ぎ、弟の頼貞は別家を立てる。頼貞の子の顕氏(あきうじ)は陸奥守の受領名を持つが、これが奥州家の家名の由来である。
くどくどとした説明だったが、要するに、熊本藩主、日本国首相を輩出した細川氏奥州家の一番の御先祖様のお話である。
香川県綾歌郡宇多津町大門に「三ツ岩(細川義阿の墓)」がある。不思議な巨石だ。人工物のようであり、ゆるぎ岩の例もあるから自然物のようにも思える。
細川義阿と聞いてもさっぱり知らない。調べてみると、史書「梅松論」に登場するという。該当部分を読んでみよう。
爰に細川四郎入道義阿、湯治の為にとて相摸の川村山に有ける処へ<子>息陸奥守顕氏の方より是迄無異に御上洛の由使節を遣しけるに、我敵の中に有ながら、一功をな<さ>ざらんも無念也。又存命せしめば面々心元なくおもふべし。所全(詮)一命を奉り、思ふ事なく子孫に(の)合戦の忠を致さすべしとて使の前にて自害す。此事将軍聞召れ、殊に御愁歎深かりき。誠に忠臣の道といへども、武(たけ)くもあはれ成しなり。さればにや合戦の度毎に忠功(節)を致し、帯刀先生直俊、左近大夫将監将(政)氏等討死す。天下せいひつの後、彼義阿の為とて子息奥州、洛中の安国寺、讃州の長興寺を建立せられ(る)、命<を>一塵よりもかろくして没後に其威<を>上られし事、有がたき事なりと<ぞ>人申<合>ける。
(『新校群書類従』第16巻(内外書籍、昭3)所収 巻第371「梅松論上」)
建武二年(1335)7月、鎌倉幕府再興を企図して、北条時行を盟主とした中先代の乱が勃発する。足利氏はまだ建武政権を守る立場であったから、乱の鎮圧に動く。細川氏は足利氏の支流であるから当然、行動を共にする。
この時、細川頼貞は湯治のため相模の川村山にいた。そこへ子の細川顕氏のもとから、(鎌倉将軍府の成良親王が乱を逃れて)無事に京都にお戻りになったことを知らせに、使いの者がやってきた。頼貞は
「敵を前にして手柄一つ立てられぬとは無念じゃ。このうえ生きておれば、みな、わしのことを気にかけるだろう。このうえは一命を捧げ、顕氏らが思う存分に合戦できるよう取り計らおう。」
と、使いの前で自害した。
このことを足利尊氏公がお聞きになり、たいへん嘆き悲しまれた。忠義を尽くす臣下としての行いとはいえ、勇ましくも気の毒なことであった。そういうわけであろうか、合戦のたびに死力を尽くして戦い、頼貞の子の直俊や一族の将氏らは戦場に散った。
戦乱が収まってから、細川顕氏は父の頼貞のために、京都に安国寺、讃岐に長興寺を建立した。塵よりも軽いかのように失われた命であったが、その死後に威徳は増した。こんなことは、なかなかあるものではない、と人々は話したのであった。
『新編相模風土記』によれば、湯治場のあった「相摸の川村山」とは、中川村(現在の神奈川県足柄上郡山北町中川)の東方字湯河原にある温泉とも、川村山北(同じく山北町山北)の湯坂という所にあった温泉とも伝えられている。
相模で亡くなった細川頼貞の墓がなぜ讃岐にあるのか。「梅松論」によると、子の顕氏が父の菩提を弔うため、讃岐に長興寺を建立したという。長興寺は足利尊氏が全国に建立した安国寺の一つであった。そして、顕氏は讃岐守護に任命されている。つまり、顕氏は讃岐守護として長興寺を建立し、それが讃岐安国寺と位置付けられたのだろう。
三ツ岩のあたりが長興寺の跡だとされている。本当に顕氏が父の墓として三ツ岩を築いたのか、そこにあった珍しい岩が「梅松論」の記述をもとに細川義阿の墓とされたのか、それは分からない。
今日は、細川護熙元首相の御先祖様の墓というか巨石が讃岐にあるという、不思議なつながりの紹介であった。
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