第二次安倍改造内閣が3日に発足した。安倍首相は記者会見で次のように述べた。
内閣一丸となって三本の矢を射込んできた結果、雇用の改善、賃金の上昇という形で景気の好循環が生まれ始めています。この道しかない。私はそう確信しています。
アベノミクスの成果を高らかに謳っている。そう言われたらそんな気もするが、本当にそうなのだろうか。
三本の矢とは①金融緩和②財政出動③成長戦略だった。ある識者によれば、そもそも3つの政策は通常の経済政策を並べたにすぎず、①②はもはや色褪せて③は手つかずだという。別の識者によれば、もともと矢は3本でなく、通貨の下落の1本しかなかったという。
安芸高田市吉田町吉田の安芸高田少年自然の家に「三矢の訓(みつやのおしえ)跡」と刻まれた大きな石碑がある。
「三矢の訓」とは、矢は1本では折れるが3本では折れない、君たちも一致団結せよ!という分かりやすい教訓である。少年自然の家で合宿を行う小中学生にはピッタリの内容だ。ところが、この碑は自然の家が建てたものではない。なぜここにあるのか。
自然の家の入口に「毛利公居館 御里屋敷跡」の碑が建っている。ここは毛利元就の居城・郡山城のふもとである。元就の居館があったと伝わる場所だ。説明を読んでみよう。
御里屋敷跡伝承地 三矢の訓跡碑
江戸時代以降の記録では、少年自然の家敷地を毛利元就の居館・御里屋敷と伝えている。しかし平成3・4(1991・92)に行われた試掘調査ではそれを裏づける遺構や遺物は見つからず、館の位置は再検討されている。
少年自然の家敷地には、もと大江中学校(昭和43:1968年廃校)が置かれていた。この地が毛利元就居館跡と伝わり、元就が臨終に際し三本の矢の訓えを諭したという逸話にちなんで、昭和31年(1956年)中学校生徒会の手で「三矢の訓跡」の碑が建てられた。題字は元就の子孫にあたる毛利元道氏の揮毫である。
石碑はかつてこの場所にあった大江中学校の生徒会が建てたものだった。すごいぞ生徒会。元就の子孫の方に揮毫してもらっている。元道氏は最後の藩主元徳の孫で公爵であった。
「元就が臨終に際し三本の矢の訓えを諭したという逸話」は、元就の屋敷跡であるここが故地だという。元就は臨終に際して、隆元、元春、隆景を呼び寄せ、三矢の訓を諭した。三子は一致団結して毛利家を繁栄に導いた。
この有名な逸話は、隆元が元就に先立って亡くなっていることから、そもそも史実ではないことが明らかである。実際に元就の臨終に立ち会ったのは隆景と輝元で、元春は尼子再興軍との戦いで出雲にいた。
関連があるとすれば、国指定重要文化財の「三子教訓状」(『毛利家文書』405)である。元就が弘治三年(1557)に周防富田の勝栄寺(周南市中央町)で隆元、元春、隆景の三子に宛てた全十四条の自筆書状である。その第一条は次のとおりだ。
幾度申候而、毛利と申名字之儀、涯分末代まてもすたり候はぬやうに、御心かけ、御心遣肝心まてにて候/\、
(何べんも繰り返して言うことじゃけーど、毛利の名が末代まで続いていくように、精一杯心掛けることが大切じゃけーのう。)
さすがは毛利元就。人格者である彼に従う者多く、ついには、このような石高を誇ったという。
「吉田銘菓 毛利元就公 百二十五萬石」である。鳳月堂の主力商品である。大名の石高を商品名にしている銘菓は多い。以前に姫路の「五拾萬石」を紹介したことがある。肥後五十四万石、加賀百万石にちなんだ銘菓もある。しかし、この「百二十五萬石」の右に出る菓子はなかろう。日本最大の石高を誇る銘菓なのだ。
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