「府中」という地名は各地にある。市は東京都と広島県にあり、広島県には町もある。かつては村もいくつかあったようだ。さらに遡ると、対馬市と石岡市に府中藩があった。いずれも国府があったことに由来している。
さて、今回紹介するのは茨城県石岡市。やはり国府があった。国司は守、介に次いで大掾が置かれていた。この大掾を世襲するうちに、職名が名字となってしまった一族がいた。
石岡市国府五丁目の春林山平福寺に「常陸大掾氏墓所」がある。市指定文化財である。墓前の標柱には「葛原親王正統常陸大掾平氏之墓」とある。葛原(かずらわら)親王は桓武天皇の第三皇子で、その子とも孫ともいう高望王が寛平元年(889)に平朝臣を賜って臣籍に降ったことで武家平氏が始まっていく。
中央の大きな五輪塔は、大掾氏の祖、平国香の墓とも伝えられている。1.62mの高さである。平国香は将門の伯父で、清盛の伊勢平氏と大掾氏の常陸平氏の共通の祖先である。三方周囲の14基の五輪塔は、府中城を築いた大掾詮国(あきくに)以降の代々の墓標とも言われている。
将門や清盛は大河ドラマになって有名だが、大掾氏についてはあまり知られていない。境内に巨大な碑がある。高さ3.2mの「常陸大掾氏碑」、明治29年12月の建立である。これを読めば何かつかめるかもしれない。
撰文は正四位勲四等文学博士重野安繹(しげのやすつぐ)である。我が国に実証的な歴史研究を打ち立てた史学史に欠かすことができない人物である。号は成斎。
題額は正三位勲四等式部次長侯爵徳川篤敬(とくがわあつよし)で、水戸徳川家12代目、廃藩後の当主である。
以下は重野成斎『成斎文集』(冨山房)から「常陸大掾氏碑」の抜粋である。ただし、旧字体がすべて再現できているわけではない。
常陸石岡往昔國府所在稱曰府中地勢衍沃民物
殷阜中世以還大掾氏世居之明治甲午四月予偶
遊此登其故墟崇墉濬洫鞠為茂艸俯仰感慨作詞
以凴弔之大掾氏關東望族土地兵馬之富雄于一
時而其亡于今三百餘年流風餘韻不可復見古今
盛衰之變亦足以痛息而深慨矣按史大掾氏系出
於葛原親王親王孫高望賜姓平朝臣子國香常陸
大掾兼鎮守府将軍國香子貞盛武而有謀承平中
平将門反攻殺國香貞盛時為左馬允在京棄官赴
難間關崎嶇與藤原秀郷協謀經六年始平之歴官
常陸大掾鎮守府将軍弟繁盛承後繁盛子維幹養
於貞盛居筑波郡多氣稱多氣大夫平忠常反朝廷
命源頼信討之維幹率兵三千先歸之亂尋平繁盛
以下世襲常陸大掾因氏大掾維幹子重幹重幹五
世義幹與八田知家有隙為知家所中傷謫於駿河
源頼朝盡収其所領筑波郡及南郡北郡地與之其
別宗資幹資幹重幹玄孫也居吉田郷馬塲稱馬塲
小次郎資幹既併多氣氏地富甲一國世襲常陸大
掾稱馬塲大掾多氣氏遂微不顯資幹七世曰高幹
北條時行作亂陥鎌倉高幹往從之兵敗逃歸無何
歸順鎮守府将軍源顯信赴陸奥海上遇風漂至鹿
島碕高幹迎納之國府後又降足利尊氏子詮國始
城府中徙焉因曰府中大掾與小山佐竹宇都宮那
須長沼結城小田有八大家之目子満幹黨上杉禅
秀與足利持氏搆兵禅秀敗死満幹降持氏時江戸
通房在箕河城乗馬塲無備襲取之満幹出兵攻之
竟不能復也後満幹與其子慶松在鎌倉持氏啣其
嚮黨禅秀攻殺之大掾氏嗣絶族頼幹入嗣七傳至
清幹大掾氏日微江戸氏益興佐竹義宣與江戸重
道有隙襲陥其水戸城水戸即馬塲也進圍清幹於
府中城陥清幹自殺天正十八年十二月也大掾氏
至是竟亡矣夫貞盛之平将門雖曰復父讐定亂安
民功固不可没當時籌畧謀慮皆出於貞盛秀郷不
過為之應援耳而世乃推秀郷為首功至貞盛之事
則殆罕知者且秀郷子孫蕃衍往往居顯要而貞盛
之胤遺孽餘隷流落民間唐澤之祠巍然列官弊而
大掾氏終於不祀報施之理寔有不可知者也石岡
有濵某者維幹十世孫康幹之後也康幹弘安蒙古
之役赴戦有功賜茨城郡高濵因氏焉數傳至幹安
始稱濵氏仕大掾氏大掾氏亡子孫服農曰税所某
曰矢口某曰金子某曰押野某曰幕内某曰池田某
亦皆大掾氏之支族遺臣云諸氏憂貞盛之功與大
掾氏遺蹟併歸湮晦也請予文以表章之将建碑其
故墟石岡在舊水戸支封内因乞徳川侯篤敬君題
碑額予久從事史筆於歴世沿革之故頗致思焉乃
據譜牃畧敍世系係之以辭曰
天潢分派兮将種延系勦兇殪憝兮孔武且智傳業
襲職兮慶流子孫地扼咽喉兮士馬精堅勢與時遷
兮存亡迭代其鬼饑餒兮功烈湮晦誰弔遺蹟兮禾
黍離離勒辭貞石兮發幽闡微
実際の碑文と見比べると、少々異なっている点があることに気付く。最初に「常陸石岡大掾氏遺墟碑」とある。「明治甲午四月」は「甲午歳」である。最後のほうでは「舊府中藩主松平頼策君嗣頼孝君」と水戸徳川家連枝の府中松平家の名前を見ることができる。
だが、ここでは『成斎文集』に拠って意訳してみよう。
常陸国石岡は、むかし国府があったので府中と呼ばれている。土地は肥沃で町が栄えている。中世以来、大掾氏の本拠地であった。明治27年4月、私はたまたまこの地に来て、その遺跡を訪れた。高かった壁にも深かった堀にも、すっかり草が生い茂っている。見渡すと感慨を覚える。思うがままに文を書き、大掾氏を弔うこととする。
大掾氏は関東の名族で、土地や兵馬を多く持ち、一時はたいへん勢力があった。しかし、滅亡してから三百年余りになる。名声は伝わっているが、もはや見ることはできない。盛衰の移り変わりは激しく感慨深い。
歴史をひもといてみよう。大掾氏は葛原親王から出ている。親王の孫の高望が平朝臣を賜った。その子国香は常陸大掾兼鎮守府将軍となった。その子が貞盛で、強くて頭がよかった。承平年間に将門が反乱を起こし国香が殺害された。その時、貞盛は左馬允となって京にいたが、官職を棄てこの困難に立ち向かった。鳥は穏かに鳴くが山道は険しい。藤原秀郷と協力して6年を経て乱を鎮圧した。その後、常陸大掾と鎮守府将軍を歴任した。
弟の繁盛は常陸大掾を受け継いだ。その子の維幹は貞盛の養子となって筑波郡多気に住み、多気大夫と称した。平忠常の乱で朝廷が源頼信に討伐を命じた際、維幹は三千の兵を率いて乱を平定した。繁盛以下の当主は常陸大掾を世襲したので、氏が大掾氏となった。
維幹の子が重幹で、重幹五世の孫である義幹は八田知家と対立し、讒言にあって駿河に蟄居を命じられた。源頼朝は義幹の筑波郡などの所領を没収し、別系統の資幹に与えた。資幹は重幹の玄孫である。吉田郷馬場に住み、馬場小次郎と称した。資幹は多気氏の所領も併せ豊かになった。常陸大掾を世襲したので馬場大掾と称された。多気氏は衰え歴史に現れなくなった。
資幹の七世の孫を高幹という。北条時行が乱を起こし鎌倉を占領した際に、高幹はこれに従っていた。しかし、戦いに敗れて逃げ帰り、宮方に帰順した。鎮守府将軍の北畠顕信が陸奥へ赴く際に、海上で風がおこり鹿島崎に流された。高幹は顕信を国府に迎えたものの、後に足利尊氏に降ることとなる。
子の詮国は府中城を築き、ここに移った。それゆえ府中大掾と呼ばれた。小山氏、佐竹氏、宇都宮氏、那須氏、長沼氏、結城氏、小田氏と並び称される関東八屋形である。その子満幹は上杉禅秀の乱に加わり、足利持氏と兵を構えた。禅秀は敗れ満幹も持氏に降伏した。時に江戸通房が見川城(河和田城カ)にいた。備えのない馬場城を襲い、これを奪った。満幹は兵を出して攻めたが、ついに回復することができなかった。その後、満幹は子の慶松と共に鎌倉にいたが、持氏は禅秀の一味だとして殺してしまった。
これで大掾氏の嗣子は絶えるかに思われたが、一族の頼幹が継いだ。それから七代目が清幹である。大掾氏は衰微してゆき、江戸氏はますます栄えた。ところが、佐竹義宣が江戸重通と対立し、江戸氏の水戸城を奪った。水戸城とは馬場城のことである。佐竹勢はさらに進んで、大掾清幹のいる府中城を囲み、清幹を自害に追い込んだ。天正18年(1590)12月のことである。大掾氏はここに至ってついに滅亡してしまった。
さて、貞盛が将門を平らげたことだが、貞盛にとっては父に対する復讐とはいえ、乱を収め民を安んじたのである。その功績は不滅である。当時、知略に於いては、貞盛が抜きんでて優れていた。秀郷は援軍にすきないのだ。しかし、世の人は秀郷の手柄ばかりを言い立て、貞盛のことに至ってはほとんど知る者がいない。それに、秀郷の子孫は増えて盛んになり、あちこちで要職についているが、貞盛の子孫は落ちぶれて民間にまぎれている。
唐沢山神社(栃木県佐野市、祭神:藤原秀郷)は、別格官幣社として立派に祀られている。しかし、大掾氏は祀られていない。恩に報いるというのは世の道理だが、このことが知られていないようだ。
石岡に濵という者がいる。維幹十世の孫、康幹の後裔である。康幹は蒙古襲来の弘安の役で戦功があり、茨城郡高浜を賜った。氏はこのことにちなんでいる。数代を経て幹安に至り初めて濵氏と称した。大掾氏に仕え、大掾氏が滅んだ後は帰農した。税所、矢口、金子、押野、幕内、池田の各氏はみな大掾氏の支族か遺臣という。諸氏は大掾氏の遺跡とともに貞盛の功績が失われてしまうことを憂いている。
請われて私は文を以てこのことを明らかにした。まさに大掾氏ゆかりの地に碑が建てられようとしている。石岡には水戸藩の支藩があった。徳川篤敬侯爵に題額を揮毫していただいた。私は長く歴史を研究してきた。大掾氏代々の歴史に、すこぶる思いを致しているところだ。そこで家譜を調べ系譜を略述した。以上で筆を置くこととする。
大意はつかんでいると思うが、どうだろう。正確に訳すには漢文か中国語の素養が必要だ。最後部の詩文については意訳さえできなかった。
碑文中で「石岡有濵某者」と浜氏について特記している。これは石岡きっての富商、浜平右衛門のことである。大正14年には多額納税者として貴族院議員となった。
平福寺を後にしたなら隣の府中誉(ふちゅうほまれ)を訪れるとよい。老舗らしい風格の素敵な酒蔵である。私は府中誉のにごり酒を買って帰った。さすがの大掾氏もこの味は知らないだろう。まことに美味な酒である。