関ヶ原の戦いで東軍についたら、普通、勝ちだろ。ところが、本日紹介する大名は、東軍に味方しながらも切腹させられるという悲しい結末を迎えた。どのような武将だったのだろうか。
養父市八鹿町大森に「赤松広秀の供養塔」がある。また「腕塚」ともいう。
赤松広秀は、大河ドラマ『軍師官兵衛』にも登場した。天正三(1575)年10月、京の妙覚寺において播磨の三大勢力である小寺政職、別所長治、赤松広秀がそろって信長に拝謁するという場面が、第9話で放映された。広秀を演じていたのは野杁俊希(のいりとしき)で、赤木春恵の孫である。
広秀はその頃、龍野城主であった。天正四年から五年にかけて、播磨で毛利氏の影響力が強まると、今度は毛利方についたようだ。
これに対して、同五年12月3日に秀吉は上月城を陥落させた。そして5日、龍野城にも兵を向けるが、家臣たちは16歳の広秀を平位(ひらい)庄佐江(さえ)村に退去させ、戦わずして降伏してしまう。
たつの市揖西町(いっさいちょう)佐江(さえ)、揖西町前地(まえじ)、揖保川町(いぼがわちょう)養久(やく)の境目あたりに「乙城址」がある。ここが広秀の居城であった。
その後は秀吉の配下として軍功を挙げ、天正十三年(1585)に但馬竹田城2万2000石を与えられた。今、天空の城として人気スポットになっている竹田城の姿は、広秀が整備したものである。秀吉政権下の武将として、その務めをよく果たした。
そして、運命の関ヶ原がやってくる。広秀は西軍の一員として前哨戦である田辺城の戦いに参加、これに勝利する。ところが関ヶ原における西軍敗走の報に接するや、東軍に寝返り西軍の鳥取城を攻撃し開城させる。
関ヶ原の戦いは慶長五年9月15日で、それからひと月半ほど後の10月28日のこと、驚くべきことに、広秀は鳥取の真教寺で切腹を賜るのである。享年39。
鳥取城攻撃の際に、城下を焼討ちにしたことが、家康の不興を買ったのだという。ともに戦った亀井茲矩(これのり)に「赤松一人がやったこと」と陥れられたためともいう。
なんとも気の毒な若き武将の死だが、広秀は戦国の世を渡りきる資質に欠けていたということだろうか。そうなのかもしれない。
しかし、ここからは広秀の名誉回復の話である。まず、本日の史跡「赤松広秀の供養塔」から始めよう。これには次のような刻銘がある。
慶長五年十月廿八日三十三歳逝
乗林院殿可翁松雲居士之墓
前竹田之城主赤松左兵衞廣秀
建立は元文四年(1739)である。なぜ、この年に建てられたか。その前年、但馬はひどい飢饉に襲われた。しかし、広秀が奨励した養蚕によって飢饉を乗り切ることができたのだという。供養塔には人々の感謝の気持ちが込められているのだ。
しかし、享年を33としており、史実と異なる点がいぶかしい。しかも死後ずいぶんと歳月を経て建てられている。もう少し確かな史料はないものかと探すと、同時代の証言が見つかった。
朝鮮の儒者、姜沆(カンハン)は慶長二年(1597)、慶長の役で藤堂高虎の水軍に捕えられ、慶長五年(1600)まで日本に抑留された。帰国は関ヶ原の戦いよりも前のことである。
姜は日本滞在中に、当代随一の碩学、藤原惺窩と交流を深めた。そして、惺窩を通じて広秀とも交流を持ったのである。その様子を記した『看羊録』(姜沆著、朴鐘鳴訳注、東洋文庫440)を読んでみよう。この文中で「広通」は広秀のことである。
(藤原惺窩は)
また、次のようにも言った。
「日本の将官は、すべてこれ盗賊であるが、ただ、〔赤松〕広通だけは、人間らしい心を持っています。日本にはもともと喪礼がありませんが、広通のみは三年の喪を行ない、唐の制度や朝鮮の礼を篤(あつ)く好み、衣服や飲食などの些細(ささい)なところまで、必ず唐と朝鮮に見習おうとしています。日本にいるのではありますが、日本人ではない〔と思えるほどな〕のです」
我が国を代表する儒者に高く評価され、朝鮮の儒者がそれを記している。本当に真面目な人物だったのだろう。普通に真面目ならいいが、生真面目だったのかもしれない。上の引用文の続きはこうだ。
〔そして、〕とうとう私のことを広通に話した。広通は、時々私のもとへやって来て話を交わしたが、自分は〔加藤〕清正や〔藤堂〕佐渡〔守高虎〕らと仲違いをしているので、〔互いに知りあっていることを〕決して佐渡の家に知られてはいけないのだ、ということであった。
広通こと広秀が東軍に味方しながらも切腹を賜ったのは、このあたりに理由があるのかもしれない。儒者に評価されるのもいいが、生き残りに必要なのは武将からの信頼だ。
天空の城を築いた赤松広秀。悲しい最期を迎えたとはいえ、今日の史跡のように、地域の恩人として祀られたのである。民衆から慕われること、領主としてこれに勝る喜びはないだろう。
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