リサイクルではなく「金属供出」である。戦時中、多くの金属製品が回収され、兵器の生産に充てられた。生活用品のみならず、お寺の釣鐘、街中の銅像までもが「出征」した。釣鐘が失われた鐘楼には、コンクリート製などの代替梵鐘が吊るされたという。持たざる国・日本の悲劇であり、後世に語り継いでゆかねばならない戒めである。
同じ戦争でも歴史ロマンで語られる戦国時代、寺社の梵鐘が「陣鐘」として徴発されることがあったという。人気の大河「真田丸」のクライマックス、大坂夏の陣でも百舌鳥八幡宮の鐘が徴発され、現在は滋賀県長浜市の勝福寺にあるという。どんな事情があったのだろうか。
梵鐘が鋳つぶされて兵器となったり、遠くへ運ばれたり、戦争は梵鐘の運命を変える。考えてみれば、人も徴用されれば同じこと。普通の暮らしをしていた人が兵士となって人を殺す、あるいは異国の土と化す。戦争は人の運命をも変えてしまう。
本日は、戦国の世に翻弄された釣鐘の話をしよう。
大田市温泉津町温泉津の愛宕神社に「流転の梵鐘」がある。
一見、ありがちな釣鐘のようだ。かなりの重さがあるだろうから、簡単には動かせないように思える。なのに「流転」とはどういうことか。説明板に次のように記されている。
然るに天正19年豊太閤朝鮮に出兵の時軍用として当社の鐘を携へり。帰陣の際元の鐘を取換隠岐国海士郡勝田山源福寺と銘文ある鐘を当社に返納あり。今尚之を存す。
秀吉の場合は金属資源の枯渇に苦しんだわけではなく、陣鐘に転用したようだ。天正19年は1591年で、その翌年に秀吉軍が朝鮮に向けて渡海する。この鐘はその準備段階で徴発されたことになる。
鐘に刻まれた銘文には、「隠州海郡」「勝田山源福寺」の文字を見ることができる。現在の隠岐郡海士町の隠岐神社の場所にあったのが、勝田山源福寺である。銘文からは、明応六年(1497)の卯月つまり4月に、源朝臣秀真筑後守が願主となって奉納した鐘で、鋳物師は藤原信重だということが分かる。
海士町は隠岐の島前・中ノ島にある。この町は後鳥羽上皇ゆかりの地で、上皇の行在所となったのが勝田山源福寺なのだ。近くの「海士町後鳥羽院資料館」には、源福寺にあった「流転の梵鐘」のレプリカがあり、その説明文に次のように記されている。
梵鐘は明応六年(一四九七)院の追善供養のため寺院に寄進されたものですが永禄九年(一五六六)丹波但馬地方の海賊に略奪されたと伝えられのち天保七年(一八三六)に石見の国温泉津で発見されました。
延応元年(1239)にこの地で亡くなった後鳥羽上皇の冥福を祈って、明応六年(1497)に源福寺に寄進された鐘だったのだ。その鐘は永禄九年(1566)に丹波但馬の海賊に略奪されたという。但馬の海賊で知られるのは奈佐日本之介(なさやまとのすけ)だ。
毛利方の日本之介は天正九年(1581)に秀吉による鳥取城攻めに敗れて自刃する。もしかすると、鐘は日本之介から秀吉の手に渡り、温泉津へ間違って返却されたのかもしれない。
流転の運命を負わされたこの梵鐘は、毎年大みそかに、除夜の鐘としてつかれるそうだ。500年の時を経て今なお現役の鐘の響きは、平和の象徴に他ならない。
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