映画『のぼうの城』は野村萬斎の怪演が光っていたが、それ以上に水攻めの凄さを見せつける秀作だった。「日本三大水攻め」は高松城水攻め、太田城水攻め、忍城水攻めを指す。このうち高松城水攻めは『のぼうの城』冒頭で描かれた。忍城水攻めは『のぼうの城』だけでなく、今季大河『真田丸』でも23話と24話でも描かれていた。
高松城水攻めでは、猛将・清水宗治が腹を切った。忍城水攻めでは、のぼう様・成田長親が踊った。そして、太田城水攻めで自らの命を賭して城中の子女の助命を願い開城したのは、太田左近である。
和歌山市太田一丁目に「太田左近像」がある。もとは民家に祀られていたものだという。太田左近宗正といい、雑賀(さいか)一揆の指導者の一人だが、詳しいことは分からない。
雑賀衆は地侍の自治集団で、本願寺と連帯して信長や秀吉に抵抗し、特に小牧・長久手の戦いでは秀吉を背後から脅かした。その因縁から天正十三年(1585)に紀州征伐が行われ、最後の最後まで秀吉に抵抗したのが太田城だったのである。
和歌山市太田二丁目の来迎寺境内に「太田城阯碑」がある。揮毫は従三位侯爵徳川頼倫、紀州徳川家15代目である。
周囲は平坦な住宅街でとても城跡には思えないが、小字は「城跡」というそうだ。
すぐ近くの太田三丁目に「太田城毘沙門天」がある。太田城の守護神だったという。
もとは総光寺という寺院にあったが、天正六年(1578)5月、雑賀衆のうち信長勢と反信長勢が争い総光寺が焼失したため、毘沙門天が太田城に飛び移ったのだという。
和歌山市橋向丁にある「大立寺山門」は、和歌山市指定文化財(建造物)である。
この門は、太田城大門を移築したものだと伝えられる。本柱の背後に控柱を立てた薬医門形式で、材質は欅(けやき)を主体とし栂(つが)をまじえているそうだ。
時は天正十三年(1585)3月21日、秀吉は大坂から紀州征伐に出陣した。和泉の千石堀城はすぐに落ち、紀伊に攻め入り根来寺は23日に炎上、太田城を囲んで28日から築堤を開始した。
和歌山市出水に2か所「出水堤」、水攻めの堤防跡が残っている。宮井川から導水し、数日で満水となった。秀吉勢は中に船を入れて攻撃し、22日に開城へと追い込んだ。
和歌山市太田二丁目の来迎寺の近くに「小山塚」がある。首塚である。もとは100mほど南東にあったが、区画整理の際に移された。
開城後、主な武将53人が斬首され、3か所に分けて首塚が築かれた。「小山塚」はその一つという。揮毫は参議院議員徳川頼貞、紀州徳川家16代目である。
開城の日に、秀吉から次のような命令が出された。(太田家文書)
一、在々百姓等、自今以後、弓箭・鑓・鉄炮・腰刀等停止せしめ訖(おわんぬ)。然る上は、鋤・鍬等農具を嗜み、耕作を専らにすべき者也。仍って件(くだん)の如し。
天正十三年卯月廿二日 (羽柴秀吉朱印)
そこここの百姓はこれ以後、弓矢、槍、鉄砲、刀を所持することを禁じられたところである。すきやくわなど農具を持ち耕作に専念せよ。
刀狩が行われたのである。これは天正16年(1588)に全国に向けて発せられた刀狩令の原型となったとされる。
地縁や宗教で結びついた自治組織が、中央集権的な一円支配を目論む新興勢力に敗れ去った。秀吉が武器の扱いを指示したのは、支配被支配の関係を明らかにするためであった。百姓に農具を持たせて村へ帰らせたのは、生産力を向上させるためであった。
兵農分離はここから始まり、時代は近世と呼ばれるようになった。中世は太田城で終わりを迎えたのである。
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