石垣に石製品(例えば石臼、手水鉢)が転用されるのは珍しいことではない。姫路城には五輪塔、宝篋印塔、そして驚くなかれ石仏まで転用されている。仏罰を恐れなかったのだろうか。信仰に篤かったように思える当時の人々の心性に興味を覚える。このブログでも伊丹市の「有岡城跡」の事例をレポートしたことがある。
姫路市本町の姫路城のほの門の近くに「姥(うば)が石」がある。
形を見ると石臼である。おばあさんと石臼と石垣に、どのような関係があるのだろうか。説明板を読んでみよう。
秀吉がこの城を築くとき、石が不足しました。城下で餅を焼いて売っていた貧しいお婆さんが、何かの御用に役立ててくださいと、使っていた古い石臼を寄付しました。
秀吉は、彼女の奇特な志をたいへんよろこんで石垣に使いました。この評判はすぐ町中にひろまり、国中の各方面からお城の構築に使ってくださいとたくさんの石が寄付されました。お城の建築は急速に進み、やがて立派に完成しました。
今、この石垣の石臼がそれだと語り伝えられてます。
なかなか、ほほえましい話だ。だが興味深いことに、この伝説は史実ではなく、どうやら後世の創作らしいのだ。というのは、石垣は池田輝政の時代のもので、秀吉が築いた石垣は内部に埋っているのだ。しかも、このエピソードは江戸時代の文献には登場しないのだとか。
それでも、「姥が石」伝説は今も生きている。観光客にとって姫路城の人気スポットであり、先年完了した「平成の大修復」では、「平成の姥が石」という募金活動が行われた。
鳥取市東町二丁目の鳥取城に「お左近(さご)の手水鉢」がある。美しさは「姥が石」に勝っている。
お左近とは、いったい誰なのか。説明板を読んでみよう。
近世城郭としての基礎は、池田長吉の時代に築かれました。この時の工事にあたって、池田長幸(長吉の子)夫人の侍女・「お左近」の活躍はめざましいものだったようで、このお左近の手水鉢を石垣に築きこんだところ、難工事であった三階櫓も、無事完成したという伝説が残されています。
昭和三八年、この「手水鉢」と思われる石材が発見され、三階櫓石垣の修理に際して、もとの位置に復元されました。
こちらは一般庶民というよりも、家中の関係者の尽力によって完成したこととなっている。ここにあった三階櫓は、天守閣を失っていた鳥取城にとって、象徴としての役割があった。
「姥が石」と「お左近の手水鉢」、どちらの話にも共通しているのは、石垣の構築には縁遠い女性が貢献していることだ。戦時中に金属供出として鍋や釜を差し出した銃後の女性と重なって見える。「銃後も戦場 心は一つ」という総力戦体制は、我が国の古くからの美徳なのだろうか。