FROGMANの傑作『古墳ギャルのコフィー』に、桶狭間(おけはざま)先生という訳の分からないキャラクターが登場する。矢の刺さった落武者で、コフィーの担任教師だという。
ここまで読んで意味不明だった方、気に留めずともまったく支障ない。本題はここからだ。
桶狭間とは何か。戦国好きな子なら、小学生でも知っている。日本三大奇襲の一つという、桶狭間の戦いである。
豊明市前後町仙人塚に「戦人塚」がある。ここは次回に紹介する国指定史跡「桶狭間古戦場伝説地」の附(つけたり)指定である。
「せんにんづか」は「千人塚」と表記するのをよく見かける。このブログでも「真夜中に襲った津波」で紹介した。一方こちらは、地名が「仙人塚」で、史跡は「戦人塚」と書く。
奥に見える石柱には、正面に「戦人塚」、左に「南無阿弥陀仏」、右に「永禄三年庚申五月十九日」と刻まれている。説明板を読んでみよう。
永禄三年(一五六〇)桶狭間の戦いにおける戦死者を曹源寺二世快翁龍喜(かいおうりゅうき)和尚が明窓(めいそう)に命じ埋葬供養した塚である。この石碑は元文四年(一七三九)百八十回忌の供養祭に建碑されたものといわれる。
昭和十二年十二月二十一日指定 豊明市教育委員会
駿河の実力者・今川義元を、新興勢力・織田信長が討ち取った有名な戦いである。戦死者は今川勢が2500人ほど、織田勢は830人ほどと伝えられる。この塚はかつて「駿河塚」と呼ばれたというから、今川勢が葬られているらしい。
手前に歌碑がある。その説明はこうだ。
五月雨に法の衣や志ぼるらん
しのぶ昔のミいくさのあと 善吉
永禄三年(一五六〇)五月十九日、織田信長のために壊滅的打撃を蒙った今川方の将士の多くはここに眠る。
「回向に来た和尚も、昔の戦をしのんでみると悲しみに堪えられなかった事であろう」の意である。詠み手は落合の紺屋(こうや)、菱屋善吉(ひしやぜんきち)で嘉永元年(一八四八)刊の「名区小景」に載る。
豊明市観光協会
その日、今川勢は桶狭間の松林で昼食休憩をしていた。ところが、俄かに天候が急変して雷雨となった。この機に乗じて織田勢が奇襲し、今川勢は大将が討ち取られた。雨降って地固まるというが、雨のおかげで信長は勝利し、戦国大名としての基礎固めをした。いっぽうの義元は、雨が命取りになった。
5月19日は、今の暦で6月12日とも22日ともいう。合戦から二百数十年ののち、同じように巡り来た梅雨の中、回向に訪れた僧侶の袖も濡れる。今川軍の将兵の無念を思えば、降る雨は恨めしくもあり、恩讐を洗い流すようでもあったろう。
討死をした今川勢の武将に、井伊直盛がいた。来年から始まるNHK大河『おんな城主直虎』のヒロイン、おとわ(次郎法師)の父である。演じるは杉本哲太。
『真田丸』は、主人公に関係ないとして、あの関ヶ原の戦いでさえ超高速ですっ飛ばした。だが『直虎』は、桶狭間の戦いをじっくりと描はずだ。しかも、今川目線で見る桶狭間である。実に興味深い。
ここ「戦人塚」には、井伊直盛配下の者たちも葬られているに違いない。塚では今も、6月第一土曜日に曹源寺(豊明市栄町内山)の住職によって法要が営まれ、戦死者の供養が続けられている。供養の日には決まって涙雨が降るという、なんてことはないようだ。