戦国の姫君は、政略結婚で人生が翻弄されるとか、家を守って夫や子を盛り立てるなど、娘、妻、母というイメージで、大河ドラマに登場してきた。「まつりごと」と「いくさ」は男たちの役目だから、女性がリーダシップを発揮する機会がなかった。そもそも当時の記録に女性の個人名が登場することすら珍しい。
だが前回の大河で、ついに「おんな城主直虎」が誕生した。娘でも妻でも母でもなく、井伊家のトップとして活躍する。現代の企業トップに求められる資質が性別に関係ないように、城主として家臣団を掌握し領地領民を守ることは、「おんな城主」であれ当然の責務である。
『直虎』のおかげで、戦国時代の女性が注目されている。そこで本日は、男と同じように戦闘に参加した女性たちを紹介しよう。
岡山市南区と玉野市の境にある常山に「常山女軍の墓」がある。
常山は「児島富士」とも称される独立峰で、標高307.2mの山容は遠くからでも確認できる。常山城は尾根に沿って曲輪が配置されており、難攻不落なように見える城である。この城でいったい、どんな戦いがあったのだろうか。女軍の墓の手前にある「常山女軍之碑」(昭和十二年四月)の一部を読んでみよう。
天正三年六月四日小早川隆景備中平定の余威を以て兵を備前児島に移し同月六日勢を分ちて三方より常山城を攻む。城主上野肥前守隆徳応戦して互に勝敗あり。翌七日払暁城中訣飲して自殺す。室三村氏勇名あり。甲を擐(かん)し白綾の鉢巻をしめ二尺七寸の国平の太刀を帯し白柄の長刀を提げ春の局秋の局以下青女房三十四人を随へ城兵八十三騎と共に浦兵部丞宗勝の陣中に突撃して奮戦し死する者多し。乃ち太刀を宗勝に貽りて後事を属し城中に入り従容として自刃す。年三十三。女房等皆之に殉ず。世に之を常山女軍と呼びて盛に其勇烈を称す。洵に非常時に於ける婦人の亀鑑と謂ふべし。
実際に戦ったのは小早川隆景と上野隆徳だが、大きく見るなら、毛利勢VS織田勢という構図である。もう少し説明が必要だ。その前提として、上野隆徳は備中の雄・三村元親の妹婿という関係を頭に入れておいてほしい。
三村元親の父家親は、永禄九年(1566)に宇喜多秀家に暗殺された。元親は毛利氏の勢力を背景として、宇喜多氏に対して復讐心を燃やすこととなる。ところが天正二年(1574)、宇喜多氏と毛利氏が同盟を結んだのである。それは、独ソ不可侵条約のようなまさかの結びつきだった。もっとも独ソと同じく喧嘩別れになるのだが。
はらわたの煮えくりかえる思いの元親はこれに対抗するため、飛ぶ鳥落とす勢いの織田信長と同盟を結ぶ。今から見れば正しい判断のようだが、結果的には時期尚早で、天正三年(1575)6月2日、元親は毛利氏と激しく戦った後に切腹して果てる。それでも最後まで頑張ったのが、妹婿で常山城主の上野隆徳だった。
常山合戦における出色の名場面は、女軍の戦いである。「室三村氏」とは、三村家親の娘、元親の妹にして隆徳の妻である鶴姫のこと。34人の女房を従え、城兵83騎とともに、敵将・浦(乃美)宗勝の部隊と一戦を交えた。浅い傷を負った鶴姫は腰の刀をとり、宗勝にこう言った。『児島常山軍記』より
是は我家重代の国平が打たる名作なり。当家より父家親に参らせし秘蔵、他に異なりしが、重代のよしききたまひ、返し置れし太刀なれば、父上に添ひ奉ると思ひ身を離さず持きたりしが、死後には宗勝に参らする。後世弔ひてたまはれ。
三村家の血を継ぐ娘として、先祖伝来の名刀を亡き父に捧げようと守ってきたが、もはやこれまで。わたしが死んだ後は宗勝、そなたに進ぜよう。どうか後世(ごせ)を弔ってたもれ。そう言って、城へ引き返し、太刀をくわえ、うつ伏せになって、死んだ。
常山城の本丸に「城主上野隆徳公碑」がある。側の岩を「腹切岩」という。
鶴姫の死に続いて、隆徳も腹を十文字に掻き切って自害した。その場所が「腹切岩」だと伝えられている。こうして、備中兵乱と呼ばれる三村氏と毛利氏の戦いは終わった。早くに織田方についたにもかかわらず、三村一族は滅び去るのだが、対照的に世渡り上手だったのが宇喜多氏である。毛利氏からタイミングよく織田方に鞍替えし、秀吉のもとで大出世を遂げることとなる。
人生この先どうなるのか、誰にも分らない。時を経て未来から振り返れば、なるべくしてそうなったんだなと理解できるだろうが、現在から見た未来は、あらゆる可能性に満ちたカオスでしかない。戦後70年以上の平和を享受している我が国も、どうなるか予測がつかない。安倍一強政権も女性防衛大臣も、どこまで持ちこたえられるか分からない。
女性防衛大臣と「おんな城主」に加えて、女性自衛官も増えているという。軍人さん(自衛官だが)も今や20人に1人は女性だという。まさかガルパンこと「ガールズ&パンツァー」に端を発する国防女子萌えが影響しているわけではあるまい。
だが、女性自衛官を国防女子だとか言ってトレンドと勘違いしてはならない。そうしたお国を守る女性は、四百数十年前の常山合戦に先例を見ることができるのだ。【常山女軍】それは「おんな」と「いくさ」を語るうえで欠かすことのできない戦闘集団なのである。