吉良上野介は悪役の代表格だが、地元吉良(西尾市)では名君として親しまれている。逆に赤穂義士は、吉良の人々にとって「義士」であるわけがなく、『忠臣蔵』を見る人はほとんどいないとか。ところ変われば人の評価も変わる。島原の乱の要因となる苛烈なキリシタン弾圧を行った大名として名を残す松倉氏もそうだ。
乱後に松倉勝家は失政の責任を問われて斬首されたが、これは大名が斬首された唯一の例だという。宗教弾圧だけでなく重税を課して厳しく取り立て、従わぬ者に藁蓑(わらみの)を着させて火をつけ、それを「蓑踊り」と呼んだというからひどい。こうした圧政は勝家一人の責任ではなく、乱の数年前に没していた先代の父重政が始めたことでもあった。
松倉重政は元和二年(1616)に大和五條から島原に入封し、島原城を築き城下町を整備するなど、初めは善政を施していたが、寛永二年(1625)に将軍家光にキリシタン取締の甘さを指摘されてから弾圧強化に踏み切ったという。
こうしたことから島原では、町の生みの親でありながら松倉父子の評価は高いとは言えない。むしろ、その後に藩主となった深溝(ふこうず)松平家の殿さまのほうが、市民に親しまれているようだ。
しかし、松倉重政の前任地である大和五條では、評価が大きく異なる。
五條市新町二丁目の西方寺に「松倉豊後守重政の墓碑」がある。「松倉祭」と染められたのぼりが美しい。
島原で亡くなった重政の墓碑が、なぜ五條にあるのだろうか。注目すべきは台座の碑文である。裏面から右側面にかけて、次のように刻まれている。
去慶長十五年戌冬新町之地貢諸役悉蒙免許其後天下共赦之恩澤無疆今為報謝謹建之
新町中
去る慶長十五年(1610)の冬、新町の諸税を免除していただき、その後、天下公認となりました。そのおかげは限りないものであり、今、感謝のために謹んでこれを建てます。
これは、五條新町の人々が重政に感謝して建てた顕彰碑なのである。その思いは昔と同じように今も続いている。
五條市新町一丁目の新町松倉公園に「松倉豊後守重政之碑」がある。平成二十年(2008)に建てられた。
慶長十三年(1608)、重政は一万石余の大名として大和五條の二見城に入城した。つまり、この新しい顕彰碑は入城400年を記念して建立されたのである。重政に感謝の意を込め、次のように高く評価している。
松倉豊後守重政が五條の地を領したのは、僅か八年であったが、その間に新町を創設し、商業と宿場の町、交通の要衝としての五條発展の礎を築いた。
重政は武勇の誉れ高く、さらに町造りや城造りにも優れた才能を示した。後に要害堅固の島原城を築城している。
五條での町造りにとどまらず、島原城築城にも言及するなど、地方創生という現代的な視点から、事績を的確に記述している。
まったく別の観点からの評価も紹介しよう。昭和十六年(1941)7月20日に日本海事振興会編纂『我国開国時代海洋発展の偉人』が発行された。この本は7月20日を「海の記念日」と制定したことを記念して出版された。現在の祝日「海の日」のルーツとなった記念日だ。
「海洋発展の偉人」には、山田長政や天竺徳兵衛など、東南アジアで活躍した人に並んで、本日の主人公、松倉重政も採り上げられている。重政は海洋発展にどのように貢献したのだろうか。読んでみよう。
彼は南洋に着眼、我が天主教の撲滅は先づ呂宋(ルソン)に於てするに若かず、とし、浮浪の士を集めて自ら南洋呂宋を侵略する事を思ひ立ち、幕府の許可を得、武器を備へ近臣吉岡九右衛門、木村権之丞をして、呂宋偵察の任に当らしめんとし、当時二十四回南洋に航したと言ふ長崎の糸屋随右衛門を船長とし、一船を艤し、寛永七年(二二九〇)肥前樺島より、呂宋に向はしめた。
キリスト教徒の拠点であるフィリピンをたたくため、先遣隊を出したというのだ。皇紀2290年は西暦1630年に当たる。対外戦争に発展する可能性があったが、重政が急死、権之丞はマニラで客死したこともあって、九右衛門が情報を持ち帰っただけで終わった。
それでも昭和16年という時期を考え合わせると、注目すべき出来事と言える。南洋方面への進出をうかがっていた当時の我が国にとっては、寛永年間のフィリピン遠征は貴重な先例、重政は先駆者であったわけだ。事実、本間雅晴中将率いる日本軍は、この本が発行されて1年を経ずしてフィリピン攻略に成功するのである。
場所によって時代によって人物評価が異なる。人には様々な側面があり、行い一つをとっても高い評価もあればそうでない場合もある。それは当然と分かっていても、テレビドラマのように人物を善玉と悪玉に分けたがる。町造りも築城も、宗教弾圧も海外遠征も、すべてまとめて松倉重政という大名なのだ。歴史上の人物でさえ評価は難しい。いわんや他人の評価においておや。
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