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波瀾万丈の人生というが、その典型は淀殿だろう。十五歳にして二度の落城を経験、一度目は父を二度目には母を失う。その後、父母の敵である秀吉の側室となり、二人の男児を生む。長男は早世したが、次男は秀頼として成長する。淀殿は実力第一の家康に対抗して、秀頼が天下人となることを願うが、ついに叶わず母子ともに自刃して果てるのであった。大河ドラマには欠かせない役どころなのだ。
大阪市中央区大阪城の山里丸に「豊臣秀頼淀殿ら自刃の地」と刻まれた石碑がある。平成9年の建立である。
豊臣氏が滅亡するのは、避けることのできない運命ではなかった。慶長十九年(1615)12月18日と19日、冬の陣の和平交渉が行われた。大坂方の使者は淀殿の実妹の初(はつ)であり、家康の後継者秀忠の正室は、同じく実妹の江(ごう)であった。浅井三姉妹という血の結束が、豊臣氏の命運を切り開くかに見えた。
講和条件も大坂方にそれほど過酷ではない。ただし「もし大坂城を明け渡すのであれば、どこの国でも国替えをしてもよい」という一件を除けば、である。秀頼と淀殿にもっと柔軟性があれば生き延びることはできただろう。織田信長の子孫のように。
大坂を手放すなんぞ、秀頼と淀殿にはできなかった。秀吉が築いた都市だからとか、慣れ親しんだ土地だからというノスタルジックな心性からではない。大坂を掌握することは、瀬戸内さらに九州へと連なる経済圏を確保することを意味した。もちろん同様な理由から家康は大阪の明け渡しを要求した。夏の陣は起きるべくして起きた。
慶長二十年(1615)4月29日に夏の陣が開始される。大坂方にはもはや、冬の陣のような粘りはなかった。5月8日に大坂城は落城となる。家康側近による『駿府記』の記述を読もう。
八日、辰刻片桐市正使者言上申云。秀頼并御母儀、大野修理、速水甲斐守を始、其外究竟士、二之丸帯車輪に引籠る由云々。幕府為御使安藤対馬守参上申云。秀頼并御母儀其外、帯くるわに籠処、則切腹申付之由被仰上。午刻召井伊掃部助直孝、秀頼母子其外帯くるわに籠処之族、可有切腹之由被仰云々。
8日朝、片桐且元の使者が大御所・家康のもとに来た。秀頼と母・淀殿、大野治長、速水守久をはじめ、その他の首脳たちは二の丸帯曲輪に立てこもったということだ。続いて、将軍・秀忠の使者として安藤重信が来た。秀頼と淀殿のほか帯曲輪に立てこもる者らに切腹を申し付けてはどうか、とのことであった。昼ごろ、家康は井伊直孝を召し、秀頼と淀殿のほか帯曲輪に立てこもる者らに切腹を命じた。
こうして大坂の陣は悲劇的に終結を迎えることとなった。秀頼が自刃し国松丸が斬られてのち、豊臣の子孫は永く絶えにけり。とはいえ…。
400年近くを経て「大阪全停止。その鍵を握るのは、トヨトミの末裔だった。」というコピーとともに映画『プリンセス・トヨトミ』が公開された。これも豊臣政権へのオマージュの一つと言えるだろう。
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