『保元物語』によると、乱に敗れた崇徳上皇は「生きながら天狗の姿にならせたまひける」という。その姿とは…。巻三「新院御経沈附崩御の事」より
柿の御衣の煤けたるに、長頭巾を巻きて、御身の血を出して、大乗経の奥に御誓状を遊ばして、千尋の底へ沈め給ふ。その後は御爪をもはやさせ給ひて、御髪をも剃らせ給はで、御姿をやつし、悪念に沈み給ひけるこそ恐ろしけれ。
大河『平清盛』では、井浦新がその姿を演じてみせた。後生を願って作成した五部大乗経の写経を都から突き返され、怨みをつのらせた上皇は、讃岐の地で憤死する。これから数回は、上皇ゆかりの地を巡ることとしよう。
坂出市高屋町に「崇徳天皇御着船地 松山津」と刻まれた碑がある。昭和61年に建てられた。
今この場所はずいぶんと内陸にあるが、当時は坂出地域の玄関口となる場所だったという。配流となった上皇が讃岐にお着きになった時の様子を『保元物語』で読んでみよう。巻三「新院讃岐遷幸並重仁親王の御事」より
讃岐に着かせ給ひしかども、国司いまだ御所を造り出されざれば、当国の在庁、散位高季といふ者の造りたる一宇の堂、松山といふ所にあるにぞ入れ進らせける。されば事に触れて、都を恋しく思召しければ、かくなむ。
浜千鳥あとは都に通へども身は松山に音をのみぞなく
讃岐にお着きになったのだが、国司がいまだに御所を用意していなかったので、この国の在庁官人で無官の綾高遠という者がつくった建物が松山という所にあり、そこにお入りになられた。なにかと都を恋しく思われ、このようにお詠みになった。
浜千鳥の足跡ならぬ私の筆跡なら都に届くであろうが、私自身はここ松山で浜千鳥よろしく泣くばかりだ。
こうして都に帰ることを願いつつ、8年間を坂出の地で過ごす。望郷の思いはやがて、怨念となって都へ届くこととなる。恐ろしくなった朝廷は、讃岐院と呼ばれていた上皇に対し、鎮魂の願いを込めて「崇徳」という諡号を奉ったという。
さて、ここ松山の津は崇徳天皇だけでなく、飛鳥時代の舒明天皇にも関係があるらしい。蘇我氏全盛期の天皇である。同じ高屋町地内の塩釜神社には、次のような説明板がある。
網の浦(舒明天皇ゆかりの地)
讃岐国安益(あや)郡に幸(いでま)せる時、軍王(いくさのきみ)山を見て作れる歌
霞立つ 長き春日の 晩(くれ)にける
わづきもしらず むらぎもの 心を痛み 奴要子鳥(ぬえことり) うら嘆(なげき)居れば
珠だすき 懸けのよろしく 遠神(とおつかみ) 吾が大王の 行幸(いでまし)の 山越すの風の
独り居る 吾が衣手に 朝夕(あさよい)に 還(かへら)ひぬれば
丈夫(ますらお)と 念(おも)える我も 草枕 客(たび)にしあれば 思ひ遣(や)る たづきもしらに
網の浦の 海処女(あまおとめ)らが 焼く塩の 念(おも)ひぞ焼くる 吾が下情(したこゝろ)
反歌
山越しの 風をときじみ 寝夜(ぬるよ)おちず 家在(いえな)る妹を 懸けてしぬびつ
平成元年一月吉日
松山青年団建之
これは『万葉集』巻一の歌番号5と6に相当する。意訳してみよう。
讃岐国安益郡(坂出市のあたり)に舒明天皇が行幸された時、軍王が山を見て作った歌
夕霞がたなびく長い春の日もようやく暮れた。
理由もなく心を痛め、ヌエのように物悲しく泣いていると
言葉にするにも畏れ多い私たちの大王が行幸されている山を越して吹く風が
一人でいる私の衣の袖に朝に夕に吹いてくるので
強い男だと自分では思っているが、旅の途中であれば憂さを晴らす方法も知らず
網の浦の乙女らが焼く塩のように、私は思い焦がれているところだ。
反歌
山越しの風が時を定めず吹いてくるので、寝る夜には欠かさず、家にいる妻を思い出したよ。
あの山の彼方には、私の愛する妻がいる。山を越えてくる風にさえ故郷が思い出されて恋しくなる。望郷の念をストレートに表現した歌だ。舒明天皇十一年(639)12月に天皇は伊予の道後温泉に行き、翌年四月に帰ったことが『日本書紀』に記されている。天皇が讃岐に立ち寄り軍王が歌を詠んだのは、この時のことと考えられている。
この万葉歌の歌碑が、坂出市ではなく綾歌郡宇多津町字網の浦の「網の浦万葉公園」にある。どうやら網の浦の候補地は二説あるようだ。地名や施設から宇多津説が有力に感じられるが、ここは天皇つながりで坂出説を推しておくこととしよう。
ともかく崇徳上皇の讃岐での日々はこの地から始まる。憤懣やるかたない生活だったように感じられるが、時には心安らぐこともあったのではないか。次回は讃岐での配流生活前半の様子を伝える史跡を訪ねることとしよう。
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