流人が現地の娘と懇ろになるのは珍しくない。八丈島の宇喜多秀家も、伊豆蛭ヶ小島の源頼朝もそうだ。保元元年(1156)に讃岐へ流された崇徳上皇もまた然り。本日は上皇の配流生活前半の物語である。
坂出市林田町に「雲井御所跡」がある。
立派な玉垣がめぐらされて整備されている。どのような由来があるのか、説明板を読んでみよう。
この地は、保元の乱に敗れ讃岐に配流となられた崇徳上皇が仮の御所として過ごされた場所と伝えられ、天保六年(1835)高松藩主松平頼恕公により雲井御所之碑が建立されている。
保元の乱は平安時代の末、摂関家の藤原頼長と忠通の争いと皇室である崇徳上皇と後白河天皇の争いが結びついて激しさを増し、保元元年(1156)鳥羽法皇の死を契機として一挙にに激化した争乱である。結果は崇徳上皇側の大敗に終り、上皇は讃岐に配流となった。当時三十八歳の崇徳上皇は、国府の目代である綾高遠の館を仮の御所とされたと伝えられている。「綾北問尋抄」「白峯寺縁起」などでは、仮の御所で三年を過ごされながら、都を懐かしく思い、その御所の柱に御詠歌を記されたとされ、その一首に
ここもまた あらぬ雲井となりにけり 空行く月の影にまかせて
と詠まれた歌から雲井御所と名付け、この地は雲井の里という、と伝えられている。またこの星に上皇が愛でた「うずら」を野に放たれたことから、この地は「うずらの里」とも呼ばれている。
雲井御所で約三年過ごされた上皇は、府中鼓ヶ丘木ノ丸殿に遷御され、長寛二年(1164)八月四十六歳の若さで崩御なされた。崩御の後、京都より御返勅があるまでの間、西庄の野沢井の水にお浸しし、同年九月に白峯で荼毘に付され御陵が築かれた。
時代を経て、雲井御所の所在が不明となっていたのを、江戸時代に松平頼恕公が上皇の旧蹟地として雲井御所の石碑を建立し、綾高遠の後裔とされる綾繁次郎高近をこの地の見守り人とした。綾氏は石碑の前に大蘇鉄を二株植えたといわれ、今も大蘇鉄が繁っている。平成十三年十二月 坂出市教育委員会
「今も大蘇鉄が繁っている」と言うが、写真の大蘇鉄は枯れているように見える。ネットで調べると、もっと昔には両側に蘇鉄が青く茂り、今はまったくないことが分かった。写真は10年前の平成19年の撮影である。
「雲井御所之碑」を建立した松平頼恕(よりひろ)は、水戸徳川家の出身である。水戸学の影響から崇徳上皇の顕彰に尽力したのだろうか。碑文に次のような一節がある。
其名乎陀爾知人文無成行奈牟事止甚母慨久甚母惜久思渡都留
そのなをだにしるひともなくなりゆきなむことといともうれたくいともあたらしくおもひわたりつる
崇徳上皇の名前さえ知る人もいなくなっているのは、たいへん辛く、たいへん惜しいとずっと思っていた。だから、この石碑を建てたと説明している。時は天保六年(1835)、明治維新の30年以上前のことだが、皇室の権威回復は徐々に始まっていた。
坂出市林田町に「長命寺跡」がある。石柱に「崇徳天皇御駐蹕長命寺趾」と刻まれている。
雲井御所跡に近い長命寺跡には、次のような言い伝えがあるという。『崇徳上皇御遺跡案内』鎌田共済会郷土博物館より
一説では、雲井御所は実はこの寺であって、綾高遠の館は勅諚のあった所だ。雲井の御製はここの堂の柱に書かれたもので、長宗我部軍の兵火にもこの柱だけは焼け残って、ただ一つ野に立っていた。里の子どもたちがここで遊ぶと腹が痛くなるというので垣で囲ってあったが、万治年間に洪水のために流失したという。
なるほど、田の中にポツンと石柱が立つのは、兵火にも焼け残った御製の柱をイメージしているのだ。雲井御所とは綾川を挟んで向かい合わせの位置になる。上皇が住まわれていたのは、どちらなのだろうか。
坂出市西庄町に「岩根の桜」がある。
今は古い切り株が残るだけだが、それでもここは崇徳上皇ゆかりの地である。説明板を読んでみよう。
岩根の桜
江戸時代の地誌『綾北問尋鈔(あたきたもんじんしょう)』によると、ここには昔、弘法大師空海がその上で修行したという大きな岩と淵(修行中に明星が出現したことから「明星淵(みょうじょうがふち)」と呼ばれます)があったとされています。
またそこには桜の銘木があり、保元の乱(保元元(一一五六)年)に敗れ讃岐へ配流された崇徳上皇(一一一九~一一六四)が、この桜の花が風に吹かれて散るのを見て、
山高み 岩根の桜 ちる時は 天の羽衣 はくかとそ見る
という和歌を残したと書かれています。(ただし実際には、この和歌は上皇がまだ天皇として京都にいた際に作られたものです)
この桜は残念ながら『綾北問尋鈔』の時代には、既に風に倒されて枯れてしまっていたようで、新しいものを植えたものの、昔の桜には及ばなかったとも書かれています。
今も枯れた桜の根だけが残っていますが、これはさらに後の明治十五年頃に植えられたもののようです。
平成二十五年二月 坂出市教育委員会
『新古今和歌集』巻第二春歌下に、次のような歌(131番)がある。
百首歌めしけるとき春の歌 崇徳院御歌
やまたかみ岩根のさくら散る時は天の羽衣なづるとぞ見る
山の上に大きな岩があり、そばに桜の樹がある。花が静かに散っているが、まるで天女の羽衣が岩を撫でていくようだ。桜の散るさまを格調高く言い表した名歌である。新古今集の崇徳院の名歌が、配流の地にある桜の銘木に結び付けられ、「岩根の桜」伝説ができたのであろう。
天女は三年に一度、上下四方四十里の岩に下りてきて、羽衣で岩にひと触れして帰るといい、その岩がすり減ってなくなってしまう時間を磐石劫(ばんじゃくごう)という。三年に一度ではなく百年とも千年ともいう。いずれにしても、とてつもなく長い時間、永遠を意味している。
元歌と伝説では「撫づる」と「刷く」が異なるが、羽衣がそっと触れるさまを表現しており、盤石劫をモチーフに弥栄を寿ぐ、実におめでたい歌なのである。
だが現実はどうだろう。崇徳院は讃岐に流され、讃岐の岩根の桜も切り株のみとなった。浜崎あゆみの言うように「ほんとは永遠なんてないこと」はみんな知っているけれど、それを求め続けている。それが、崇徳院の歌なのである。
坂出市府中町に「菊塚」がある。
流された崇徳上皇は失意に沈んでいたように思えるが、そうでもない。身の回りの世話をしてくれる女性がいたのだ。説明板を読んでみよう。
崇徳上皇が雲井御所でお住まいになっていた際、身の回りの世話をされていた綾高遠の息女、綾の局との間に一人の男の子が誕生しました。上皇は自らの名前の一字を与えて顕末と命名しました。この顕末の墓が菊塚であると伝えられていて、現在は方形の基壇の上に石が積まれた塚として残されています。
この顕末は、その後どうなったか。『崇徳上皇御遺跡案内』は次のように伝える。
菊の紋をつけて高遠にお与えになった。高遠は自分の嗣子にしたという。
崇徳上皇の皇子である重仁親王については「頭痛を治す皇子」でレポートしている。菊塚とともに、上皇の血脈を伝える貴重な史跡である。
坂出市西庄町に「姫塚」がある。
綾の局との間には皇女も生まれたという。こちらも説明板を読んでみよう。
一一五六年、保元の乱にやぶれて讃岐に配流となられた崇徳上皇は、松山の津に御着になられました。ところがまだ御所ができていないため、在地の有カ者である綾高遠が自分の館を修繕して、仮の御所とされたと伝えられており、雲井御所跡として今も伝えられています。
さて、この仮の御所にお住まいになられていた頃、何かと不便があってはならないとのことで、綾高遠の息女である綾の局が上皇の身の回りの世話をされておりました。
この綾の局と上皇の間に皇子と皇女が誕生したと伝えられております。
この姫塚はその皇女の墓であると伝えられております。
この皇女については、石碑に「姫君誕生 幼年死去」と刻まれているので、薄幸の姫君だったことが分かる。このように崇徳上皇は、伝説として今も讃岐に息づいている。次回は上皇の配流生活後半のお話をお届けしよう。
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