先日の九州北部豪雨で大きな被害が出た朝倉市に遊びに行ったのは4年前の夏だ。筑後川の美しい流れをよく覚えている。その折の取材をもとに書いたのが「百済救援戦争の大本営」である。この記事の中に「木の丸御殿」という史跡が登場するが、これは中大兄皇子が母である斉明天皇の喪に服した場所である。一日も早い復興をお祈りしたい。
坂出市府中町に「鼓岡(つづみがおか)神社」がある。拝殿の扁額は閑院宮載仁親王の揮毫である。
菊の御紋が皇室ゆかりの神社であることを物語る。神社の由緒を記した説明板を読んでみよう。
当社地は、保元平治の昔、崇徳上皇の行宮木の丸殿の在ったところで、長寛二年(一一六四年)八月二十六日崩御されるまでの六年余り仙居あそばされた聖蹟である。
「木の丸殿(このまるでん、きのまろどの)」というのは、加工していない丸木で造った仮設の宮殿のことで、隠岐にある後醍醐天皇の「黒木御所」も、同じような意味合いをもつ。京での暮らしとはほど遠い、質素な生活を強いられたことだろう。
坂出市府中町に「内裏泉(だいりせん)」がある。
食う寝る所に住む所に欠かすことができないのは、水である。災害時の避難生活で最優先なのも、水の確保である。上皇の住まわれた仮設住宅でも事情は同じだ。説明板を読んでみよう。
崇徳上皇は長寛二年(1164年)に崩御されるまでの六年間は、府中鼓ヶ丘の木ノ丸殿にお住まいになられました。
この泉はこの頃に、上皇の飲用に供された泉で、内裏泉とよばれ、地形上も谷筋に位置していることもあり、決して大旱魃にも枯れない泉であると伝えられています。
現在の新しい説明板には「上皇の高貴さをはばかってか、飲むと目が見えなくなるといって、里の人々は使わなかったそうです」という禁忌譚も紹介されている。
坂出市府中町に「椀塚」がある。
このような何でもない場所にある史跡を見つけるのは実に楽しい。私も上皇と同じ風景を見ているのだろうか。説明板を読んでみよう。
この椀塚は、その頃上皇が使っていた食器類を埋めたものと伝えられており、いつ頃のものかは分かりませんが、「盌塚」と刻まれた石が置かれています。
その真偽の程は定かではありませんが、こうしたものまで言い伝えになり残っているということからは、上皇がこの地域に与えた影響の大きさを推し量ることができるといえます。
平成二十五年二月 坂出市教育委員会
「盌」は「椀」に同じである。上皇がご使用になった食器類を供養のために埋めたのだろうか。それとも、何らかの土器が出土したので、上皇に関連付けられたのであろうか。
坂出市府中町の鼓岡神社に「杜鵑塚(ほととぎすづか)」がある。
風雅な感じがするが、どのようないわれがあるのか。説明板を読んでみよう。
啼けば聞く 聞けば都の恋しきに この里過ぎよ 山ほととぎす
崇徳天皇
ほととぎすのなく声を聞けば、崇徳天皇が都を思い出すので、里人がほととぎすを殺したり、追い払ったりしたので、のちにホトトギス塚をたてて、供養したそうです。
崇徳上皇の境遇も気の毒だが、ホトトギスもとんだとばっちりを被ったようだ。『崇徳上皇御遺跡案内』では「前掲の御製は、後鳥羽上皇が隠岐で詠まれたものである。崇徳上皇の御製として誤り伝えて、この地にこの伝説を生んだのはどうした故であろうか」と疑問が投げかけられている。
しかも『遺跡案内』の指す「この伝説」とは、上皇の歌に感じたのか、この里ではホトトギスが啼かなくなった、というものである。似たような伝説は、崇徳上皇や後鳥羽上皇だけでなく、佐渡の順徳上皇や京極為兼、土佐の尊良親王、甲斐の良純入道親王にもあるという。
「テッペンカケタカ」と印象的に啼くホトトギスをモチーフとして、都から流された貴人の思いを上手く表現しているので、繰り返し伝説として語られたのであろう。この歌に関係する貴人では、年代の一番古いのが崇徳上皇だから、本当に崇徳上皇の歌なのかもしれない。
しかし、百人一首にも採録されている「瀬を早み…」のような名歌を詠む崇徳院が、ストレートに思いを吐露して、すねたような態度をとるとも思えない。讃岐での生活が心穏やかなものだったならば、もっと素晴らしい歌を詠んだであろうに。上皇に残された時間は長くはなかった。次回は崩御の話である。
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