応神天皇は吉備から迎えた妃、兄媛(えひめ)の後を追って、アハヂシマからアヅキシマへと向かった。アハヂは淡路で、アヅキは小豆である。小豆島(しょうどしま)を「あずきじま」と呼ぶのは冗談だと思っていたが、歴史的には正しい読みだったのだ。
そのアヅキシマの次に訪れたのが、本日紹介する場所である。
岡山市北区下足守の葦守八幡宮に「葉田葦守宮(はだのあしもりのみや)阯」の石碑がある。ここは『日本書紀』巻第十「応神紀」に登場する由緒ある場所である。
時は応神天皇22年3月14日、今の大阪にあった宮殿でのこと、天皇が高楼に登ってみると、妃の兄媛(えひめ)が西を見つめ泣いている。どうしたのか問えば、吉備にいる父母が恋しいという。天皇は妃の親を思う気持ちに心動かされ、船を手配し妃を吉備に帰した。
9月6日、淡路島で狩りをし、小豆島に遊んだ。島巡りがしたかったのではない。兄媛のいる吉備に行きたかったのだ。続きは訓読文で読んでみよう。
庚寅、亦葉田の(葉田、此をハダと云ふ。)葦守宮に移りて居ます。時に御友別参赴(まゐ)けり。則ち其の兄弟子孫を以て膳夫(かしはで)として奉餐(みあへつかまつ)る。天皇是に御友別が謹惶(かしこま)りて侍奉(つかへまつ)る状(かたち)を看(み)そなはして悦びたまふ情(みこころ)有り。因りて以て吉備国を割きて其の子等(こども)に封(ことよさ)す。
応神天皇二十二年九月十日、葉田葦守宮にお移りになられた。そこへ兄媛(えひめ)の兄である御友別(みともわけ)がやってきた。彼の一族は料理をつくって天皇に奉仕した。謹厳実直に仕える姿を見て、天皇はたいそう喜ばれた。そこで、御友別の子らに吉備国を分け与えることとした。
こうして御友別の子と兄弟は吉備の各地域を与えられ、子孫は繁栄して今の吉備氏になっている、と説明する。吉備真備一族の始祖伝承である。吉備氏の立場で説明するなら、地域を支配する正当性の根拠が明らかにされたということだ。大王と地方の娘のロマンスを背景に、忠義を尽くした一族が恩恵を被る。古き良き時代の牧歌的なものがたりである。
権力者と結びついたら、いいことがある。それは応神天皇の昔に限ったことではなく、高度な政治システムにより私情を挟む余地などないかのように見える現代においても、どうやら、ありうることらしい。
公平性を担保することが政治への信頼を生み出し、勤労意欲や納税意識を高めていく。そりゃあ、事実関係を質されて「記憶にない」と答弁せざるを得ないこともあるだろう。人間だもの。しかし、そんなに都合よく記憶がぶっ飛んでメモまで無くなるのか。そう見えて仕方ない。
本日は閉会中審査が参議院であった。事実関係は水掛け論に終始し、証人喚問を含めた徹底究明に踏み切らない限り明らかにならないだろう。ただ、記憶と記録に沿って明確に説明する文部科学省と、ないない尽くしで真相を明らかにする姿勢が感じられない首相周辺とでは、どちらが信用されますか、という話なのだ。
しかし、大事な人のお友達だからちょっと特別、都合の悪いことは隠しちゃえなど、考えてみれば、私たちの身のまわりにもありがちではないか。法律や規則、タテマエなどでがんじがらめになり、「人間の顔をした民主主義」から遠ざかっているように見える政府にも、意外に人間らしい牧歌的な側面があるのかもしれない。
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