首相夫人を全力でサポートしたノンキャリア官僚がイタリア大使館の1等書記官にご栄転になった。国会で鉄壁のゼロ回答を貫いた理財局長は国税庁長官にご昇任になった。安倍政権への忠義を尽くした者には、よいポストが与えられる。これを歴史的分野では「御恩と奉公」という。
倉敷市粒江に「誓紙井戸」がある。
佐々木盛綱は先駆けの功により、鎌倉殿頼朝から備前国児島郡を賜った。鎌倉殿に忠義を尽くした盛綱は、新領地の土地の主だった者に忠誠を誓わせるため誓紙(起請文)を書かせた。その時に使われたのが、この井戸である。
盛綱は海中に浅瀬を見つけて先駆けを果たし、勝利の立役者となったが、その功名の裏には、次のようなスキャンダルがあった。『平家物語』巻第十「藤戸」より
同廿五日の夜に入て佐々木三郎盛綱浦の男を一人語(かたらひ)て、白い小袖、大口、白鞘巻など取(とら)せ、すかしおほせて、「此海に馬にて渡しぬべき所やある。」と問ひければ、男申けるは、「浦の者共多う候へども、案内知たるは稀に候。此男こそよく存知して候へ。譬(たと)へば川の瀬の様なる所の候が、月頭には東に候、月尻には西に候、両方の瀬の交(あはひ)、海の面(おもて)、十町計(ばかり)は候らん。此瀬は御馬にては、輙(たやす)う渡させ給ふべし。」と申ければ、佐々木斜(なのめ)ならず悦(よろこん)で我が家子郎党にも知せず、彼男と只二人紛れ出て、裸になり、件の瀬の様なる所を渡て見るに、げにも痛く深うはなかりけり。ひざ腰肩にたつ所も有り、鬢(びん)の濡る所も有り。深き所は游(およ)いで、浅き所に游ぎつく。男申けるは、「是より南は、北より遥に浅う候。敵矢先を汰(そろ)へて、待ところに、裸にては叶はせ給ふまじ。是より帰らせ給へ。」と申ければ、佐々木「げにも。」とて帰りけるが、「下臈(げらふ)は、どこともなき者なれば、又人に語(かたら)はれて、案内をも教へむずらん、我計(ばかり)こそ知らめ。」と思ひて、彼男を刺殺し、首掻切て棄てけり。
盛綱は、地元の漁師に浅瀬を教えてもらったのだが、「身分の低いやつは、誰の味方をするか分からぬ。他の武者に頼まれると、また教えてしまうだろう。オレだけの秘密とせねば…」と、漁師を刺し殺し、首を切って遺棄したのである。
このスキャンダルが元ネタとなって、謡曲『藤戸』が創作される。領主として児島に入った盛綱は、従者に次のように告げさせた。
此浦の御主佐々木殿の御入部にて有るぞ。何事も訴訟あらん者は罷り出で申し候へ。
訴え出たのは、殺された漁師の母親であった。最初は白を切っていた盛綱がついに真実を白状すると、老母は正気を失って…。
亡き子と同じ道になしてたばせ給へと、人目も知らず伏し転(まろ)び、我子返させ給へやと、現(うつゝ)なき有様を、見るこそ哀(あはれ)なりけれ。
良心の呵責に耐えかねた盛綱は、漁師への弔いと遺族に対する補償を約束するのであった。
倉敷市藤戸町天城に「経ヶ島」がある。かつては海峡の中の小さな島であった。
石碑では、次のように説明されている。「次の年」とは合戦の翌年、平家が滅んだ元暦二年(1185)である。
次の年、児島郡の領主となった盛綱は、哀れな漁夫の追福のため、大供養を藤戸寺で行い写経をこの島に埋めたので経ヶ島と呼ばれるようになった。
頂上に石灰岩で造られた二基の宝篋印塔があるが、小さい方が漁夫の供養塔と伝えられている。
右の大きな宝篋印塔は経塚である。漁夫の供養塔には「静海道教」と記されていたという。
倉敷市藤戸町天城に「笹無山」がある。藤戸合戦を象徴する有名な伝説の場所だ。
藤戸史蹟保存会の説明板では、盛綱が漁夫を殺したことに続いて、こう説明されている。
このことを知った老母は半狂乱となり、佐々木と聞けば笹まで憎いと笹をむしり取り、恩を仇で返した盛綱の残酷なしうちをのろった。老母の怨念が宿ったのか後の世まで、この小山には笹が繁ることがなかったという。
これが、我が子の命を理不尽に奪われた親の思いだ。この藤戸合戦に限らず、同じような思いをした人がいたに違いない。太平洋戦争で我が子の「名誉の戦死」を告げられた親も例外ではなかったろう。
倉敷市粒江に「浮洲岩跡」がある。周囲は湿地になっており、ここがかつて海峡であったことを偲ばせる。
ここには形のよい岩があったが、その昔、時の権力者によって橋に運ばれた。現在は醍醐三宝院の庭に据えられている。その権力者は足利義満とも織田信長とも言われている。「浮洲岩」と刻まれた今ある石碑は、正保二年(1645)に建てられた。書は熊沢蕃山だという。
この場所が顕彰されているのは名石があったからばかりではない。実はあの功名の裏にあった殺人事件の現場なのである。謡曲「藤戸」で、問い詰める老母と白状する盛綱である。
「さてなう我子を沈め給ひし、在所は取り分き何処の程にて候ぞ。」
「あれに見えたる浮洲の岩の、少し此方の水の深みに、死骸を深く隠しゝなり。」
ここは権力者の非情を記憶に留める場所であり、真実を明らかにしようと臆することなく追及する庶民を顕彰した場所なのである。菅官房長官の記者会見で食い下がるように質問する東京新聞の記者へのバッシングがあるが、権力を持つ者は不都合な真実を隠すのが常であり、だからこそ追及せねばならない。謡曲「藤戸」は何百年も前に作られたものだが、ある意味、抵抗の文学なのである。