岡山市南部には「金甲山」を校歌とする学校がいくつかある。
金甲山のみねよりも 高き理想に胸をはり(福島小)
真澄の空にそびえて清い 金甲山のふもとに伸びる(第二藤田小)
緑かがやく金甲山 潮風かおるこの大地(南輝小)
どっしりした山容の頂にはテレビ塔があり、遠くからでも視認できるので、このあたりでは、ふるさとの山として親しまれている。
岡山市と玉野市の境、正確には玉野氏八浜町波知に「二等三角点 金甲山」がある。
二等という等級は金甲山の価値とはまったく関係なく、三角点が整備された順番を表している。高さは403.39m。うわさによると、ここからあべのハルカスが見えるらしい。歴史的なことについては、説明板に次のように記されている。
金甲山は古代から吉備中山、高倉山とならび神々の降臨する大岩座を有する聖なる山とされ、中世は修験道の山として信仰されています。
金甲山の名は奈良末期、坂上田村麿呂が由加山に棲む鬼を退治に来た時、金の甲を戦勝祈願の為埋めた事から名づけられたと言い伝えられています。
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坂上田村麻呂は征夷大将軍として東北地方へ遠征したことで知られる。そういえば、「おじゃる丸」の名字も「さかのうえ」だが、何か関係があるのだろうか。田村麻呂が悪路王(あくろおう)という鬼を退治する伝説は東日本各地で伝えられているが、蝦夷の阿弖流為を降伏させた史実から派生したのであろう。
備前児島には田村麻呂が来てもないのに、伝説が残っているところが興味深い。由加山の鬼の伝説はこうだ。白髪隆孫『由加山案内』より
第五十代桓武天皇の頃、この児島地方に悪者がいた。その妖鬼の大将を阿黒羅王といい、東郷太郎、加茂二郎、稗田三郎の三人の子をもっていた。蓮台寺の僧侶を追放して寺に立てこもって、日々その勢を増し参詣人も殆んど絶えてしまった。
この妖鬼を征伐したのが坂上田村麻呂である。鬼の名は「阿黒羅王(あくらおう、阿久良王とも)」、悪路王によく似ている。御伽草子の「田村の草子」(室町時代)には、「むつの国たかやまのあくるわうといふおに」が登場するので、おそらくこの鬼が伝説の源流だろう。
今も金の甲がどこかに埋まっているのだろうか。徳川埋蔵金のようにトレジャーハンターが狙っていないのか。おそらく、どこを掘り返しても金の甲は出てこないだろう。金甲山は見る角度によって、兜(かぶと、甲)に見える。金甲山が兜鉢(かぶとはち)で左右の山が吹返(ふきかえし)だ。甲は山の形のことなのだ。
山が夕陽に照らされて金色に輝いたこともあっただろう。また、この写真のように朝陽が空と湖を黄金に染めたこともあっただろう。「金甲山」と名付けたのは、この景色を見た人ではなかったか。